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2016年


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本番を間近に控えた控室は、吐いた溜息が床に積もり窒息してしまう程の重苦しい空気が漂っていた。約300人が詰めかけた会場を前に、バンドメンバーの面々は出演を承諾したことを後悔しながら、映画・スウィングガールズのエンディングを聞いた。

 

日本の文化をカメルーンで広めるため、在カメルーン日本大使館が主催するイベントがある。それが「日本祭」である。今回の演目は、公使による合気道、映画上映(「スウィングガールズ」)、隊員によるバンド演奏の3つだった。今年はフランス文化センターの大ホールを貸し切って開催された。私を含めた6人は、このバンド演奏の演目に参加することになっている。

そこでの我々の任務は、バンド演奏を通じて日本のアニメや音楽の文化を紹介すること。最終的には、日本という国に対していいイメージを持ってもらうことである。そのために我々はアニメキャラクターの衣装を製作し、コスプレをして演奏に臨むことになった。

カメルーンでは、Narutoやドラゴンボールといった日本のアニメが頻繁に放映されており、子どもたちに大人気だ。今回の選曲やコスプレもそれにちなんだものだ。

 

今回私はギターを担当。私の本業はドラムだが、ドラムもさほど上手くないうえギターは更に上手くない。正直、カメルーンの大臣らの前で演奏するにはかなり心もとない。他にドラムを叩ける隊員がいたことと、他にギターを弾ける隊員がいなかったことから承諾したのだが、本番のステージを前に完全にビビッていた。

「歌が好き」という理由だけでボーカルに抜擢されたメンバーは、これまでバンド経験もコンサート経験もなく、極度の緊張から彼のテンションは湖底に沈んでいた。コスプレ衣装を着て大の大人が縮こまっている姿は傍から見たら滑稽だっただろうが、その時はそんなお互いの姿に笑い合う余裕もなかった。

 

しかし、本番が始り、我々は日本のアニメが持つ力を目の当たりにすることになる。我々の拙い演奏にも関わらず、客席はタイムズスクエアのカウントダウンパーティのような盛り上がり。アンコールまで飛び出した。

日本のアニメがここまでカメルーンに浸透しているとは思わなかったし、このバンド演奏がここまで大成功を収めるとはメンバーの誰も予想していなかった。ボーカルの彼は「今までの人生で一番輝いた瞬間だった」と今回のコンサートの感想を語った。

その日の夜はイベントの打ち上げが開催された。

疲労なのか、飲み過ぎたのか、緊張から解放され気が緩んだのか、果たしてそれらすべてが押し寄せたのかは分からないが、翌朝目を覚ますとその夜会の記憶がほとんど消失していたことだけは確かだ。

 


 

日本ではほとんど知られていないものの、カメルーンには活火山がある。「カメルーン山」という何の捻りもない名前をしているが、4000mを超す標高を持ち、アフリカ大陸でもっとも高い活火山として毎年多くの登山客を惹きつけている。そんな山の麓に、「ブエア」、「リンベ」という2つの街は存在する。

2016年の春休み、先輩隊員の「ミヤさん」とともにこれらの街を訪れた。

彼はパソコン隊の先輩でもあり、今では、その哲学的な思考から私が勝手に「人生の師」と仰ぐ人だ。物腰柔らかな人柄ながらボクシングを趣味にするなど、なかなかギャップのある漢でもある。「師」と仰いでいることは本人には伝えていないが、彼とお互いの持論を展開し合う時間は、他の何よりも私に気付きを与えてくれた。

そして、私が彼を師と仰ごうと思ったきっかけがこの旅だった。

第一経済都市のドゥアラに始まり、南西州の州都・ブエア、沿岸の街・リンベと、10日間以上行動を共にした。途中で他のメンバーが合流しては離れを繰り返し、ずっと一緒だったのは蓋を開けてみればミヤさんと私だった。

 

この旅のスタートであるドゥアラには、ちょうど昨年のこの時期に初めて訪れて以来何度か足を運ぶ機会があり、もう慣れたものだ。今回の目的の1つはビール工場の見学だった。

カメルーンには数多のビールが存在しているが、そのほとんどは海外からの輸入か、もしくは海外ブランドのライセンス生産だ。カメルーン発祥のビールは「Kadji(カジ)」と「King(キング)」の2銘柄しかなく、どちらも同じ会社が製造している。カメルーンにはもう1社ビール会社があるが、そちらは主に海外ブランドの担当だ。

海外ブランドのものは原料にトウモロコシなども使用しているためか、麦の香りが弱くあっさりしている。一方「Kadji」と「King」は原料に水と麦とホップのみを使用し、飲んだ瞬間にフルーティな香りが鼻に抜けるのが特徴だ。カメルーンで飲めるビールはどれも美味しいが、私は特にKadjiを気に入っている。今回はその工場を見学できるとあって、1週間ほど前から仕事も手につかないほど楽しみにしていた。

本来その工場は、学校の社会科見学以外では工場見学を実施しておらず、今回はその会社発祥の地である西部州・バファンという街の知事のコネを使い特別に実現した。そのおかげか、帰り際にお土産を大量にもらうなどのVIP待遇を受けた。工場で試飲したKadjiビールは、おそらくプラシーボ効果ではあるが、普段より濃くて美味だった。

工場見学は大満足に終了したがお土産をもらいすぎたため、車を持っていない我々の帰り道が少々大変であったのは言うまでもない。

 

そして今回のドゥアラ訪問のもう1つの目玉が、胡椒農園見学だ。

これも日本ではほとんど知名度がないが、間違いなくカメルーンの名産品の1つだろう。イギリスの品評会で特級の認定を受けている高級胡椒だ。カメルーン国内でもかなり高値で取引されているにも関わらず、その美味しさから愛好家は多い。

ドゥアラから車で西に1時間強走った場所に位置する、「ペンジャ」という小さな町がその産地だ。半径10km程度しかないエリアに、多くの胡椒農家が存在している。今回はその中でも、カメルーン国内で「AFiDi」というブランドを展開し、JICA関係者にもファンが多い会社の農園を見学させてもらうことになっていた。

ペンジャの中心街から未舗装道路を15分ほど走ったところに、彼らの農園はある。広大な敷地に、適度な間隔を空けて胡椒の木が立ち並ぶ光景は、これまでに見たことがなかった。木の数はもはや数えることができない。

胡椒の育ち方や加工法に関する説明を受けながら農園を案内され、胡椒について我々が大きな誤解をしていたことを知った。

日本では一般的に白胡椒と黒胡椒が料理に使われるが、赤胡椒や緑胡椒も存在し、我々はそれぞれ別の植物だと認識していた。例を挙げると、「黒胡椒の木」と「緑胡椒の木」は別に存在すると思っていた。

しかし、実は全て同じ木から採れ、採取時期やその加工方法が異なるだけなのである。胡椒の実は熟すにつれて緑から赤へと変化し、若い実を摘んだものが緑胡椒に、赤く熟す手前で摘んだものが黒胡椒に、熟したものが赤胡椒に、その皮を取り除くと白胡椒になるようだ。

ペンジャの胡椒は特に「白胡椒」が美味しいとされており、私もそう思う。ここでもお土産をもらえるのではと密かに期待していた我々だったが、途中で渋滞にハマり到着が遅くなったため加工担当者は既に引き揚げており、叶わなかった。

帰り際、緑色の実をかじってみてくれと言われ従うと、ピリッとした辛さの後に果物のような甘さが広がった。これはこれで悪くない。摘みたての力強さを感じる味がした。

 

盛り沢山だったドゥアラ滞在から一転、特に何の目的もなくブエアに来てしまったミヤさんと私は時間を持て余し、カメルーン1の名門と言われるブエア大学を見学したり、アメリカからの輸入品が多く並ぶスーパーで「アメリカ版マルちゃん製麺」を購入するなどして時間を過ごした。

普通、ブエアに足を踏み入れる外国人はカメルーン山に登る人ばかりなので、純粋に観光をしにここを訪れた我々はかなり珍しい存在だろう。カメルーン山以外に特に観光スポットもないのである。我々は4000m級の山に易々登るほどアウトドアではないので、散歩が精一杯だった。

しかし、ほとんどの時間を散歩に費やしたことで、この街に対する理解は深まった。我々が気付いたこの街の特徴は、「人が大人しい」ということだった。

この文章の中でも何度か触れているか、カメルーン人は外国人を見つけるとやたらと絡んでくる。そして大多数は「ニーハオ」が第一声である。既述のようにこれを嫌がる日本人は多く、カメルーンで暮らす日本人があまり散歩をしたがらない理由の第1位にランクインする。もはや殿堂入りと言っても差し支えないくらいに皆がこれを嫌がっている。

しかし、この街では、「ニーハオ」と言われないばかりか、店の客引きでさえもあまり積極的に話しかけては来ない。それを面白がったミヤさんと私は、敢えて人が多いスポットでも同様であるかを確かめてみた。すると学生でごった返していたブエア大学内でさえ、一度も声をかけられることなく1時間ほどをかけてぐるっと回り終えた。首都ヤウンデで1時間も歩き回れば、ちょっかいの回数をカウントするのは困難を極める。

こんなことに楽しさや喜びを見出す辺り、あの頃の我々はどうかしていた。

「どうすればいいか分からないってことは、どうしたいかが見えてないってことなんじゃないかな。」という彼の名言が飛び出したのは、この頃だ。

 

ブエアではたっぷり時間があったので、夕食もホテルのテラスでゆったりととっていた。人生の話をしながら、というのが基本だった。

協力隊員によくあることなのだが、帰国が近づくにつれ、帰国の喜びとともに将来への不安が押し寄せてくる。その頃の私も同様だった。帰国後にやりたいことは何となく見えているものの、プライベート(結婚など)と仕事のバランス感覚がよくわからず、悩んでいた。女系の家系に生まれた私にとって親族から結婚へのプレッシャーは少なくなく、田舎の家族のため晩婚への理解もさほどなかった。加えて、帰国後は就職せずに自営業で食べていきたいと考えていたので、悩む要素は捨てるほどあったのである。自営業を軌道に乗せ、同時に結婚相手を探すのは不器用な私にはそれほど簡単なことではない。

一方、私よりも10年長く生き、私より帰国も早いミヤさんは全く焦っている素振りもなく、「進路希望調査には『地主』って書こうかな」とボケをかますほど余裕を持って生きていた。そんな宮さんを羨ましく思い、私の悩みを相談してみたところ上述の名言が飛び出した。

確かに私は「自営業で食っていきたい」というビジョンは持っていたものの、自分が最終的にどうなりたいか、どんな家庭を持ちたいかなどといったところにまでは考えが至っていなかった。そこを上手く突かれた私は、それから何か判断に迷った際には、「お前は何をしてどうなりたいのか」と自問自答することを心がけるようになった。彼を「人生の師」だと勝手に思っているのにはそういう理由がある。

 

ブエアを出た我々は沿岸の街・リンベへと向かった。

ここでは5名が合流し、賑やかな旅団となった。

リンベの観光の目玉は、「LIMBE WILDLIFE CENTRE」という野生動物の保護施設だ。カメルーンでは、野生動物、特に猿やチンパンジーなど霊長類の乱獲が問題となっており、海外の野生動物保護団体も活動している。ここはその一環で、人間によって親を失った子ザルや、人間の手で傷つけられたゴリラなのど、動物の保護やリハビリを行っている。一見普通の動物園のように見えるのだが、実はそんな奥深さがあった。

私はここで初めて、間近に「ドリル」と「マンドリル」という動物を見た。恥ずかしながらその瞬間まで知らなかったのだが、マントヒヒ、マンドリル、ドリルは全く違う動物だった。名前が似ているのでなんとなく混同してしまっていた。
観察の結果気付いたことは、1番猿っぽいのがマントヒヒ、顔が黒いのがドリル、歌舞伎役者のような模様があるのがマンドリルだということだ。カメルーンにいると、こういったことが図鑑でなく目で直接見て学べるのがよい。

 

リンベの砂浜は黒い。同じく沿岸の町・クリビと比較しても、その黒さが際立つ。クリビのものはグレーに近いが、リンベはほとんど完全な黒だ。これはカメルーン山の噴火によるもので、以前は真っ白で美しい砂浜だったが、数百年前の噴火以来こういう濁った色になってしまったらしい。ホテルの従業員がそう話していたのだが、当然その当時彼は生きていたわけもないので、彼も誰かから聞いたのだろう。しかし、カメルーン山から遠いクリビはグレー、近いリンベが黒なので、何となく説得力があるようにも感じられる。

海底の砂が黒いので海水も当然黒く見えるのだが、その水を手に掬ってみるとその透明さに驚かされる。1点の濁りもない完璧な透明だ。もちろん飲めないが、飲めるのではないかと錯覚してしまう。海水の透明度が高いがために海底の黒さが際立ってしまい、黒い海に見えているというのは皮肉だが、実際に掬ってみた人だけがその透明さに触れられる儚さもある。

 

バスの車内、黙々と哲学書を読むミヤさんを横目に、私は「この運転手、運転危ないな」などと思いながらリンベからヤウンデへと帰還した。

 


 

日本に住んでいた時は、26年間で2度しか海外旅行をしなかった。

SE時代は休みが少なかったのもあるが、時間が有り余っていた学生時代なども、海外に行くくらいなら沖縄にでも行くわ、と思っていた。

どんな心境の変化からか、そんな私がカメルーンに来て3度目の海外旅行に出発するべく空港に足を踏み入れたのは、7月11日だった。これまでの2回は単独での出発だったが、今回は私を入れて5人。大所帯だ。旅行先で一緒に回るのは3人だが、他の国に出発する隊員もたまたま同じ便だったので、空港では賑やかだった。

 

やたらと物を没収したがる、持ち込み荷物検査官とのバトルを制し何も失うことなく無事搭乗。

前に並んでいたカメルーン人のおばちゃんはシャンプーやハンドクリームの類を大量没収、その前の白人紳士は傘を没収されていた。液体と疑われるもの、武器となり得るものは容赦なく没収の対象となる。私はこれまで2回の旅行で、T字カミソリを2回失っていた。勿論持ち込めないのは分かっていたが、国内旅行用にリュックに入れていたものを忘れており、あえなく御用となった。

シャンプーに関しては、匂いを嗅げば爆弾の材料でないことは分かりそうだが、カメルーン人は面倒くさがりなので全て没収と決まっている。

 

搭乗し席に着く際も、私の席に謎の人物が既に座っているなどのトラブルに巻き込まれることが多い。彼らは「そこは私の席だ」という至極普通の主張に対しても納得のいかない顔を見せてくれるので、対応が大変面倒だ。大体の場合乗務員が彼らを説得し本来の席にエスコートして一件落着となるのだが、今回はそういうこともなく非常にスムーズに目的地に到着。煩わしいやり取りではあるが、ないならないで少し寂しい。

 

我々が降り立ったのはムハンマド5世国際空港、通称「カサブランカ空港」、モロッコだ。

カメルーンからは飛行機で5時間ほど。早朝に出たので午前中にはもうモロッコにいた。

今回ともに旅するグループは、カメルーン隊3名、モロッコ隊3名の計6名の大所帯だ。モロッコ隊のうち1人は、技術補完研修を共に乗り切ったコンピュータ系の職種の仲間だ。アオキDという。この度は全て彼のプロデュースだ。我々は行き先や宿泊先を気にすることもなく、まるで代理店のツアーに参加しているかのように、するすると旅をすることができる。

1点残念だったのは、今回の目玉である砂漠ツアーが、出発直前にJICAからの連絡が入り中止になったことである。アルジェリア国境付近のメルズーガというエリアを訪れ、砂漠に広がる星空を眺めることになっていたが、テロの脅威があるとの理由から渡航は避けるようにとお達しが来た。そんな砂漠のど真ん中でテロなんてしても何のメリットもないと思ったが、JICAに逆らうメリットも何もないので、我々は大人しく従うことにした。その穴埋めとして、アオキD率いるモロッコ隊が急遽色々と案を用意してくれた。彼らには本当に頭が上がらない。

 

アオキDと合流した我々はカサブランカから電車に乗り、大都市のマラケシュを目指した。カサブランカの駅で今回の仲間と遭遇し、我々は5人で電車を待った。

駅に着いたのが11時45分、電車の時刻は12時。

我々は急いで昼食を購入し、大慌てでチケットを買ったが、12時の電車がプラットフォームに入ったのは13時半ごろだった。電車で移動するよ、と聞いたときは「モロッコには電車があるのか。すごいなー。」などと感動の言葉を吐いていたカメルーン組ではあったが、こういう時間感覚はカメルーンに近いな、と思わざるを得なかった。厳密に言うとカメルーンにも電車はある。しかし、何故かバスよりも時間がかかるのでほとんど利用していないのが現状だ。1時間半も遅れて登場した電車にテンションは上がっていた。

昨夜は機内泊だったので電車では爆睡してしまい、あまり景色を堪能することはできなかったが、何はともあれマラケシュに到着した。

 

「暑い。とにかく暑い。」

電車を降りて最初に抱いた感想だ。「ここのタクシーの客引きはかなり鬱陶しいから覚悟しといてね。」というアオキDのアドバイスもあまり耳に入らないほど暑かった。あくびをした口に熱い風が吹き込んでくる。空気に衣をまぶして揚げたものを無理やり口に詰め込まれているようだ。そして乾燥している。サータアンダギーの如く口の中の水分を奪っていく。我々はたまらず売店に駆け込み、飲み物を購入しだ。私が買ったリンゴの炭酸飲料は乾いた口にさっと浸透し、その美味しさは格別だった。この思い出のおかげで、そのリンゴソーダには今でもいいイメージしかない。あのコンディションで飲めばセンブリ茶でも美味しく飲めただろうから、それがリンゴソーダではなおさらだ。

そうこうしているうちにもう1人のメンバーも無事合流し、6人が揃った。

 

ホテルに荷物を置き、マラケシュでは絶対に外せない観光スポット、「フナ広場」へ。

この広場にはお土産屋や食べ物などの露店が文字通り所狭しと立ち並び、多くの観光客を集めている。一種の商店街のようにも見える。大道芸人や、「ヘナ」というタトゥーのようなペイントを施してくれる職人もおり、人でごった返している。余りにも人が多いので、「もしかして今日なにかあるのかな?」と聞いてみたところ、「いや、これは平常運転。むしろちょっと抑え気味かな。」とアオキDが答えた。これ以上どこに人を詰め込めるのであろうか。

ここの名物は絞りたてオレンジジュースだ。駅で飲み物を飲んだにも関わらずもう既に喉が渇いていた私は、軽々と2杯のオレンジジュースを飲みほした。多くのフレッシュジュース屋があり味はどこもさほど変わらないらしいが、せっかくなので隊員行きつけだというお店に行ってみた。1杯飲み終えてカウンターにグラスを置くとまた半分近く注いでくれるというサービスがあった。私は約3杯分のジュースを飲んだことになる。

モロッコ隊の誰かが「フナ広場の「フナ』は『広場』という意味らしいよ。」と言ったので、「ああ、じゃあ『チゲ鍋』とか『サハラ砂漠』とか『サルサソース』とかと同じだね。」と返すと、誰からも返答がなかった。

 

フナ広場で夕食をとったり散策をしたりしているうちにかなり時間が経っていたらしく、22時ごろになっていた。翌日は朝早くティネリールという街に向かうので早く寝るべきではあったのだが、初日ということで親睦を深めるために宴を開催。モロッコはイスラム教の国なのでお酒が手に入りづらく、ジュースでの宴だった。この宴で初めて、モロッコの南西部に「西サハラ」という国が存在していることを知った。モロッコやモーリタニアが領有権を主張し対立が起きており、大きな国際問題となっているようだ。

世の中には私の知らないことがまだまだ沢山ある。

 

マラケシュからティネリールまではバスで向かう。約7時間の旅程だ。

道程のほとんどは、3000m級の山が続くアトラス山脈を越えるために使われる。この山脈越えは慣れているはずのモロッコ人ですら音を上げてしまうほどの難所らしい。

車に酔いやすい私が酔い止めを買い忘れていたのは大きなミスだった。不安な気持ちを抱えながら乗車したが、こういう精神状態は乗り物酔いの大敵で、酔いを誘発する。しかし私には睡魔という強い味方がついていた。乗車して1時間ほどで睡魔に襲われ意識が遠のいてきた。モロッコで売っている酔い止めは催眠作用が強く、乗り物酔いする前に寝かしてしまう手法だ、とアオキDから聞いていたので結局は同じことだった。

途中の休憩地点でモロッコ人たちが激しい吐き気に襲われる中、アジア人がピンピンしているのは興味深い光景だった。我々は乗り物酔いに強いメンバーが揃っていたようだ。

 

ティネリールに着くと、「ニホンジン?」と話しかけられた。明らかに怪しいと思って無視していると、「ノリコサン?」と彼は続けた。ノリコさんというのは我々が予約していた日本人宿の経営者で、彼はそこの従業員だった。買い物のついでに我々を出迎えるように言われていたようだ。

ノリコさん宿はトドラという渓谷のすぐ傍にあり、歩いて10分ほどで行くことができる。また、宿の目の前には巨大な岩山がそびえており、その山肌には「神 国王 国民」という意味の単語がアラビア語で書かれている。どうやって書かれたのかは謎だ。

トドラ渓谷も相変わらずの暑さだったが、ちょうど足首まで浸かる深さの小川が流れており、その中を歩くことができる。足から冷たさが上ってくるようだ。よく考えれば、モロッコで川が流れているのを見るのはこれが初めてだった。モロッコは乾燥しているため、電車やバスの窓から広がるのはいつもサバンナや砂漠だった。アオキDが言うには、モロッコでは川や湖はかなり珍しいらしい。そのため今回の旅程には、湖への訪問が盛り込まれていた。明日訪れる予定のイミルシルだ。

このようにトドラ周辺にはモロッコでも珍しい水の風景が多く存在し、緑もある。そのため日本人の観光客も多く、ノリコさんの宿にも1組日本人の夫婦が泊まっていた。

その宿の夕食は基本的に日本食が振る舞われる。我々が到着した日はチキンカツだった。やはり日本の中濃ソースが一番カツに合う。

 

湖のあるイミルシルまではトドラから車で3時間。

途中でモロッコ名物のタジンを食べたりしながら適度に休憩を挟み、到着。

モロッコへと飛び立つ前、イミルシルの湖に行くという話を他の隊員としていたところ、「おれは行ったことないけど、意外と微妙らしいよ」という話を聞いてしまったので正直あまり期待はしていなかった。しかし、到着した我々を待ち受けていたのはとんでもない絶景だった。

ドライバーに「着いたぞ」と言われた場所は、「意外と微妙」という口コミにふさわしい風景だった。確かに綺麗ではあるが、カメルーンにもよくある大きさ、よくある光景だった。ありがちな光景だが、せっかく来たのでノリノリで写真を撮っていると、「そろそろいいか?」とドライバーが車に乗り込んだ。もう帰るのかと思い、「せっかちだね。」と言ったところ、いや、まだ着いていないんだ、と彼は苦笑いをした。これはまだ最終目的地ではなかった。

実はイミルシルには2つの湖がある。

 

「雄湖」と「雌湖」と名付けられた2つの湖は、車で15分ほどの距離を隔てていた。我々が最初に見たのは「雌湖」。小さい方の湖だった。イミルシルの本気は雄湖にあった。

かなり離れてみても、またカメラのパノラマモードを以ってしてもその全貌を捉えることは困難だった。加えて、その大きさもさることながら、その色に圧倒された。この湖は、晴れているときはエメラルドグリーン、曇ると銀色へと表情を変えるのである。運のいいことに我々の訪れた日は天気が不安定だったため、雲がかかったり晴れたりを繰り返しておりその移り変わりを見ることができた。天気が不安定であることをここまで有り難がった日は他にない。遠くから眺めているだけでいくらでも時間を過ごせそうな絶景だった。

 

トドラに戻ってから夕食まではまだ時間があったので、宿の目の前にある岩山を攻略することにした。目標は「神 国王 国民」の文字だ。昨日、ノマドがその文字の付近を歩いているのを見ており、登れることが判明したのだ。

見上げると果てしない道のりに見えたが、実際に登ってみると、険しいながらも時間にすると20分ほどの道のりで拍子抜けしてしまった。しかし夕食までの軽い運動にはちょうどよかったようで、戻ることにはお腹がグーグー鳴っていた。

 

翌日、ティネリールからマラケシュへ戻るバスを待ちながら、私の表情は明るかった。朝イチで薬局に寄り、酔い止めを購入していたのである。この酔い止めという名を冠した睡眠薬により、ほとんど移動に関する記憶がない状態でマラケシュへと到着することとなった。

 

ほぼ移動で1日終わってしまった昨日から一夜明け、今日はマラケシュから1時間ほどのところに位置する、ウリカという町へ。ここは普通にモロッコに観光に来た日本人はまず立ち寄らないような穴場スポットで、一番の目玉は滝である。

ウリカへ向かう途中、川辺にソファが置いてあるのがよく目についた。どうやら京都の川床のように、川で涼みながら食事をすることができるらしい。我々もちょうどお腹が空いていたのでそこで食事をとってみることにした。メニューはもはや食べ慣れたタジンにマロカンサラダ、金曜日限定メニューのクスクスだ。クスクスというのは「世界最小パスタ」の通り名で親しまれているモロッコ発祥の料理で、米粒よりもさらに小さい粒状のパスタに野菜やチキンなどの具材をトッピングして食べる。先にモロッコ旅行に行ったカメルーン隊員がこの料理に魅了され、カメルーンでも作って食べたことがあった。しかしやはり本場は一味違った美味しさだった。カレーのような風味が食欲を誘う。

 

食事を終え、滝を目指すトレッキングへと出発した。片道1時間弱の道のりを、時には手を使って岩をよじ登ったり、落ちたら命が危ない高さにある段差をジャンプして渡ったりしながら歩き進めていく。滝に着く頃には汗だくになっていた。連日のコーディネート疲れからか休憩用のベンチで爆睡してしまったアオキDを見て見ぬふりをしながら、我々は滝の中で涼んでいた。滝つぼが浅いので、滝のかなり近くまで寄ることができる。また、この滝は何故かモロッコ内外の美女が多く訪れており、心身ともに癒されたのは言うまでもない。

 

マラケシュに戻った一行は、明日夜の帰国に備えてお土産を物色した。マラケシュには、信じられないことにフランスのスーパーマーケットチェーン「カルフール」がある。そのアジア食材コーナーで、カメルーンでは絶対に買えない味醂を大量購入した。もう少しモロッコらしいものがあるだろ、という声も聞こえてきたが、カメルーンの隊員達が本当に求めているものは、こういうものなのだ。

モロッコらしいお土産を全く買わなかったわけではない。モロッコは「アルガンオイル」というオイルの産地で、JICA関係者の女性からこのリクエストが多かった。保湿、美白など多くの作用があるこのオイルは日本で買うととんでもなく高く、カメルーンではほぼ買うことができない。

APIAという高級アルガンオイルブランドのブティックでお土産を買い漁る姿は、まさに秋葉原で電化製品を買いまくる爆買い中○人の姿と全く同じであった。

彼らももしかしたらお土産として誰かにあげるために買っているのでは、と思うと、不思議と親近感が湧いてきた。

 

今回の旅を全面コーディネートしてくれたアオキDには頭が上がらない。彼はしきりに「カメルーンの方が協力隊員っぽい。モロッコ隊の環境は甘すぎる。」と言っていた。確かにモロッコはもはや発展途上国ではなく「中進国」だ。カメルーンとは大きな差がある。

実はカメルーン政府も2035年までに中進国入りすることを目標にかかげているが、2035年は意外ともうすぐだ。カメルーンの発展のために我々ができることは微力ではあるかもしれないが、自分にできることをやっていくしかない。

 


 

真昼間からビールを飲んでいた所長と私は、車のエンジンがねじ一本まで解体されていく姿を見ながら、「今日本当にテニスできるのかな」と不安な気持ちになっていた。

我々は長い夏休みを有効活用するべく、JICA カメルーンの所長とともに西部のペペヌーンというリゾート地へ2泊3日のテニス合宿に向かっていた。その道中、所長の車が不調に見舞われ、ガレージでメンテナンスを施すことになった。簡単に直るだろうと高をくくっていたが、エンジンを解体する大工事にまで発展し、3時間ほど旅程が遅れた。本来であれば午後イチにはペペヌーンに到着しテニスをしているはずであったが、修理が終わった時点で13時に差し掛かろうとしており絶望を感じた。

メンテナンス屋曰く、所長の車のトラブルは、ラジエータが寒冷地仕様になっているがためにカメルーンの暑さに対応できず、エンジンの温度が上がりすぎてしまい起こったという。寒冷地仕様を熱帯仕様にカスタマイズすることをカメルーンでは「トロピカリゼ」と呼ぶらしい。このかわいらしい響きを大いに気に入り、我々は今回の旅の間に何度もこの単語を発することになった。

修理は着々と進んでいた。

しかし、所長のドライバーは事前に「長距離移動になるから車をしっかり整備しておくように」と指示を受けており、にもかかわらず故障が発生したことにひどくショックを受け、うな垂れていた。当の所長は、自分が企画したイベントで張り切っていたが出鼻をくじかれ、誰よりも凹んでいた。そんな2人と、私を含む3人の隊員を乗せていた車は、我々の目の前でエンジンをバラバラに解体されてかわいそうな姿を見せている。なんという状況だろう。

 

そうこうしているうちに修理が完了した。その車は前の所長から引き継いだもので、何故今頃になって寒冷地仕様が邪魔をし始めるのかはイマイチ理解できなかったが、なんとか再出発を切ることができた。

 

夕方から夜へと移り変わる頃、西の中規模都市・バンガンテに差し掛かったところで、スピードメータの付近に今度は潜水艦のようなマークが点灯し始めた。偶然その辺を通りかかった長距離タクシーのドライバーにこのマークの意味を尋ねると、「エンジンに何らかの問題が起こった時に点灯するやつだよ」とのこと。「何らかの」というのが何を指すのかはしっかり調べてみ必要があり、彼にも詳しいことは分からない。

「ああ、これはどう考えても今日中にペペヌーンに着くのは無理だ・・・・」

「ああ、もしかしたらおれはクビになるかもしれない・・・・・」

我々とドライバーは全然別のことを考えながらも、しかし絶望的な顔であることは共通している中、今後の作戦を練ることになった。

 

今回の参加者は、JICAカメルーンの所長、JICAの事務所員、協力隊員4名、大使館の職員、UNDPの職員という8名だった。なんともバラエティに富んだメンバーだが、日本人の少ないカメルーンでは、「日本人」というだけで簡単に仲良くなれるのである。

作戦会議の結果、本日のペペヌーン入りは難しいという結論に至り、バンガンテで1泊挟むことに決定。隊員4名はバンガンテで活動する隊員宅に、他のメンバーはホテルに泊まることになった。バンガンテの隊員は当時カメルーンに来たばかりの新隊員であったが、我々の急な訪問を快く(見える顔をして)迎えてくれた。

所長が25歳の青年に深々と頭を下げてお願いする姿は一生忘れられないであろう。

 

ちょっとでも長くテニスをしたかった一行は、朝6時にバンガンテを出てまずカメルーン第3の都市・バフッサムへと向かった。ここでまず「何らかのエンジントラブル」を解決すべく、トヨタ専門の修理屋に意見を仰いだ。彼が言うに、「原因はいくつか考えられる。根本原因を突き止めるには少々時間がかかるが、このまま走っても燃えたり、急に走れなくなったりすることはない。」とのことだった。

バフッサムからペペヌーンまではそう遠くない。急に走行不能に陥ることはないという言葉に安心し、とりあえずペペヌーンへ向かい我々がテニスをしている間にドライバーがバフッサムに戻り完璧に整備する段取りとなった。

 

我々の悲痛な願いが通じたのか、ペペヌーンまでの2時間は順調だった。

湖の青、山の緑、そこにカメルーンの伝統的な藁葺屋根が入り混じる景色はまさにアフリカのリゾート地だった。支配人のフランス人に軽く挨拶をしがてら話を聞くと、どうやら昨日は終日雨だったらしく、テニスはどうせできなかっただろうとのこと。かなり前向きに考えるなら、ペペヌーンの宿で1日暇を持て余すより、車の修理見学もでき、バンガンテ散策もできた昨日は十分合格点をあげてもよい。

 

濡れたコートを整備し、早速テニスを始めた。

テニスは、娯楽の少ないカメルーンで我々が見出した唯一の楽しみだ。サッカーの盛んなカメルーンで、サッカーが苦手な人間には逃げ道はそう多くない。その貴重な選択肢がテニスだ。今回の参加者は大きく分けて、初心者、初級者、中級者に分かれていた。中級者レベルに位置している隊員が練習メニューを考え、他のメンバーはそれに従った。彼にはコーチ経験もある。私達から見ると雲の上の存在だ。

私はというと、おそらく初級者と中級者の間の1番微妙なレベルに属している。

中学時代は部活で軟式、テニスクラブで硬式を習うというテニス漬けの人生を送ってきた私が、今なおこのポジションに落ち着いているのは、私が器用貧乏及び飽き性を併発していることによる。

小学生時代はバンド、中学時代はテニス、高校・大学時代はバンド、社会人時代は両方、と見事に1つに絞れない人生を送ってきた。その結果、バンドもテニスも両方微妙という人間が出来上がった。しかも、バンドもパートを1つに絞れず、ドラムに始まりギターやベースにも手を出した。何においても、始めた頃は初心者にしては上手く、「真面目に練習すれば結構なレベルを目指せるんじゃない?」と言われるが、飽き性のためそこまで極めきれず他のものに目移りする。もはや手の施しようがないのである。

 

そんな私のカメルーンでのライバルは所長だ。

所長も、テニス歴は長いが本格的に練習を始めたのはアフリカに赴任してかららしく、試合をするとなかなか白熱する。これまでの戦績は3勝3敗と、かなり拮抗している。

 

1日目をロスしてしまった合宿は早くも最終日を迎えた。1分でも時間を有効活用するため私は1人、日の出とともにコートに向かった。すると数分後にもう所長が来た。サーブは、人がいるとなかなか練習しづらい。そこに共通の課題を持っていた我々2人は、皆が来る前に練習を始めてしまおうという魂胆だった。何球打ち込んでもなかなかコツを掴めない私に対し、所長は早々に「お、わかったかもしれないぞ」とテンションを上げていた。試しにゲームをやってみたが、あっさり負けた。

大体「試合をやろう」と言い出す方が勝つようになっているものだ。

最終日は、たまたま居合わせたカメルーン人が一緒にやりたいと言うので、我々全員と試合をした。一番上手い「中級者」以外全員負けた。彼は仕事で住んでいるドバイでテニスを覚えたらしい。ドバイに住んでいるカメルーン人もいるのか、それがカメルーンのGNIが高い理由か、と関係ないところを納得した。

 

往路であれだけトラブったのだから、帰りは大丈夫であろう、と誰もが思っていた。ドライバーも、「バフッサムで完璧に整備してきたぜ」と自信満々だった。一度不幸を味わうと、それに呼応して幸福な出来事が起こるのでは、と期待するのは当然のことだ。世の中に存在する極度に不運な人々を除いては。

我々が「もしかしたら僕らはかなり不運な人の集まりなのではないか」と思い始めたのは、ペペヌーンを出てから3時間ほど走り、バフィアという街の手前に差し掛かった時だった。昨日の整備の甲斐もあり快調に飛ばしていたところ、地面に空いた穴を豪快に踏み越えたところで、ドライバーが何も言わず車を急に路肩に停めた。どうしたのか、と聞くと、タイヤが回転する度に異音がするという。

一昨日あれだけトラブったのだから敏感になっているだけなんじゃないか、もう首都が近いから首都に着いたら見てもらおう、異音が聞こえやすいよう窓を開けてしばらく走ってみよう、などと口々に発言する日本人を横目に、「おそらく、多分パーツが破損しているかもしれない。」と彼は言った。「おそらく」と「多分」と「かもしれない」が一文の中に共存しているのを聞くだけで、彼が動揺しているのが手に取るように分かった。しかもその発言に反し顔は断言していた。どこか故障している、と。

 

彼より少し車の整備に詳しい、もう一台の車のドライバーにも意見を仰いだ。彼らは、私達の車がついてきていないのをいち早く察知し、バフィアで待っていてくれた。彼もまた、我々のドライバーと同じ見解だった。「低速で走行すれば問題ないから、3~40km/hくらいで徐行してなんとか首都まで行こう」と言った。

首都までは普通に走って2時間ほどの距離だった。40km/hという速度が「普通」ではないことは分かっていたが、後ろ向きな発言は後ろ向きな出来事を呼ぶ、という雰囲気が漂っていたので「まぁ、3時間ちょいくらいで着くんじゃないかな」と所長は言った。

 

この「前向きな発言は前向きな出来事を、後ろ向きな発言は後ろ向きな出来事を呼ぶ」という考え方は、在カメルーン日本大使館の公使参事官が我々にした話の中に出てきた。彼の話は少し難解だが、人を惹きつける魅力を持っている。「私は宗教は好きではないんですが」という出だしの一方、その話し方や内容は宗教家のそれに近い。それもまた、よく理解できないが彼の話を聞いてしまう一要因だろう。

彼の話は、私の記憶が正しければ①怒り=毒②福音③波動④音叉⑤共鳴⑥現象という6つのキーワードに分かれていた。口頭で聞いても難解なためここでの詳述は避けるが、噛み砕いていうと下記の通りだ。

 

まず、怒っている人間の呼気を濃縮し、それを実験用のマウスに注射したところ絶命した。ということは人間の怒りの感情には毒素が含まれていることになる。

次に、ヨハネの福音書の冒頭には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という一文がある。これは「全ては言葉という存在からスタートする」と解釈できる。シンプルに言うと「言葉は大切」ということだ。

言葉からは波動が生まれる。

それが音叉を揺らす。

音叉は一本では大きな音は出ないが、何本も集まれば共鳴して大きな音が出る。

増幅された音は更に他の音叉の共鳴を呼び、大きなエネルギーになる。

このエネルギーは現象を起こす。

 

書いてみて改めて難解だということが分かったが、彼が言いたいのは「怒りの感情を言葉に出してしまうと、周りの怒りと共鳴し、やがて大きな怒りとなる。それが不幸な出来事(事件や事故)を呼ぶ。だから、カメルーンで嫌なことがあってもポジティブなことを発言するように心がけよう。そうすればそれが共鳴してポジティブ出来事を呼び込む。」ということだろうと私は解釈する。

彼がキリスト教徒ではないのに福音書の一節を持ち出したのは、このフレーズに感銘を受けたからだと言っていた。

「隊員総会で、安全についての講義をお願いします」という依頼に対して彼はこの話をした。理論が難解だったからこそ私達の心によく残っており、誰かがネガティブな発言をすると「言霊にやられるよ」と半分冗談、半分本気でよく言っていたのである。

 

今回の度重なる車トラブルはネガティブな出来事だったが、これ以上不幸な事態を呼び込まないため、「無事辿り着いたときの喜びはすごいだろうね」とか、「この旅行は一生忘れられない思い出になった」とか「今日の晩御飯は何を食べようか」などといった明るい話をしながら時速40㎞という低速走行に耐えた。

首都に到着する頃には21時を回っていたが、気持ちは明るかった。疲れた体に流し込んだ中華料理の味は忘れることはないであろう。公使に感謝するしかない。

 

この後、所長の車は大そうなパーツを交換することになり、私はこの翌々日から高熱で3日間寝込むことになるのだが、この時はまだ知る由もない。

 


フランス語を勉強する者にとって、目標になる指標はいくつかある。日本でしか通用しない「仏検」を除くと、主に「DELF/DALF」と「TCF」がある。前者は仏検のように級を指定して受け、合否が出るタイプ、後者は合否という概念はなく自分のレベルが点数で表れる、TOEICのような試験だ。

これらの試験はカメルーンでも受けられ、加えて日本よりかなり割安なためこのチャンスを逃す手はない、と私も受けることにした。

 

この試験のレベル分けは、A1、A2、B1、B2、C1、C2の6段階となっている。A1~B2がDELF、C1以上はDALFと呼ばれる。A1が初心者向け、C2が上級者向けである。私が今回受けるのはB2(中上級)とC1(上級)レベルだ。日本の半額ほどの安さなので複数レベルの受験も可能なのである。

 

私は半年前(5月)にも受験しており、その際はB1とB2を受験し、B1のみ合格した。B2も合格点は突破していたが、リスニングの点数が低すぎてあえなく不合格となった。読解、リスニング、ライティング、面接試験の4つ全てが25点中5点を超えている必要があり、私のリスニングは3.5点だった。

その悔しさをバネに猛勉強をした、ということは特になく、何の対策もしないまま12月の本番に臨んだ。

 

当日の朝、前日にB1の試験を終えた後輩隊員が「朝食あるんでよかったらどうぞ」と声をかけてくれたが全く食欲がなく、体が受け付けなかった。

緊張しているのかとも思ったが何となく心配だったので熱を計ってみると37.5℃だった。まさか熱があるとは想定していなかったが、カメルーン滞在中のラストチャンスだったので解熱剤でごまかし、会場へ向かった。

ギリギリの体調で午前中のリスニングとリーディング試験を終え、昼休憩に入った。近所のお洒落なイタリアンに行ったがまだ食欲が出ず、ウサギの朝食が如く野菜を少しかじっただけでフィニッシュした。

一緒に試験を受けにいった後輩にマラリヤなのでは、と疑いをかけられ、お洒落なレストランのトイレでマラリヤ検査を行ったが結果は陰性だった。

ここのトイレでマラリヤ検査をしたのは私が初めてであろう。

 

午前中よりも明らかに悪化している体調を薬でごまかし、午後のライティングと面接に臨んだ。

ここからはほとんど記憶がない。意識が朦朧としていたらしい。

 

翌日、C1の試験をキャンセルし病院に行ったところ、「ウィルス性胃腸炎」と診断された。

このコンディションで受けた試験の結果に期待するほどポジティブな人間ではないので、「まぁ十中八九落ちただろう」と思い療養に集中することにした。

結果が出るのは約1か月後だ。私の2017年はその結果により好スタートを切るのか、出鼻をくじかれるのか、どちらかだ。

 

 

2016年