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2015年


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この国どう?いいとこだろ?

初対面のカメルーン人が外国人に放つあいさつ代わりのフレーズだ。「この国」はもちろんカメルーン共和国のことを指す。長距離バスにどこからともなく現れる焼き鳥の売り子、車を洗っているお兄ちゃん、バイクタクシーのドライバー、バーの給仕係、学校の先生など、私がこの言葉を言われた回数はもはや数えることができない。そう言われると大体「そうだね。特にご飯が美味しいのがいい。」となんとも無味無臭な返答をする。ハイテンションで「いい国だろ?」と聞いてくるカメルーン人に対してほとんど表情を崩さずにそう答えるので傍から見ていて本音には聞こえないだろうが、いい国だと思っているのは本当で、ご飯が美味しいのも本当だ。正直言って私はカメルーンという国をかなり気に入っている。

 

自分の生まれた国を外国人に「いい国だろ?」と自信を持って聞けるのは羨ましい。私は日本にいる外国人に対してそう質問するほど、日本のことをいい国だと思ってはいない。通勤中に腹痛が起きないよう、無宗教の私が神に祈らなくてはならないような国を、いい国だとはどうしても思えなかった。私の出会ったカメルーン人のほとんどがカメルーンという国を愛し、そこに生まれたことを誇りに思っている。「先進国っていいよな」と言っている人に理由を尋ねても、せいぜい「パソコンが安いから」とかそんな理由だ。「なんでフランスに生まれなかったんだろう」、「日本が羨ましい。あんな風になりたい。」などとここに生まれたことに対して文句を言っている人には会ったことがない。劣等感など微塵もないのである。日本に生まれた私は欧米に対して羨ましいと思ったことは何度もあるが、そういった感情はカメルーン人にはなさそうだ。ちなみに、髪がストレートで羨ましいと言われたことはあるが、それはカウントしていない。

 

同僚の先生達と、カメルーンが発展するにはどうしたらよいかという話題で何時間も議論したことはある。私は「まず、人が安定して働けるインフラを整えないと難しいと思うよ。電気とか水道とか交通とか。電気水道がいつ止まるかわからない、バスもいつ発車するかわからない状態じゃビジネスは円滑には回らないでしょ。」と持論を展開したが、全然響いていないようだった。現状のカメルーンを十分に愛しているので、変わる必要があるとはさほど思っておらず、ただの話のネタとして聞いてみたといった程度なのだろう。

カメルーン人たちが死んだ鶏のような目をして地下鉄で1時間半通勤し、朝9時から23時まで働く姿を、私は見たくない。つまりそういう国にはなってほしくはない。これは国際協力というフィールドに身を置いた立場で発言すべきことではないかもしれない。我々はカメルーン共和国が「そういう国」になるための手伝いをしに来ている。ただ、「変わってほしくない」という気持ちで協力隊員としての活動をするのは、「私がなんとかしなきゃ。変えなきゃ。」と意気込んで活動するよりは遥かに気が楽だろう。私がこの国を好きになれたのも、それに因るものかもしれない。

 

日本で道を歩いている見知らぬ外国人に対して、何の用事もないのに「ハロー」と話しかける日本人は全体の1パーセントもいないだろうが、ここでは、40%くらいのカメルーン人が何の用もなくても外国人に「ニーハオ」と話しかける。「ん、何か用?」と答えると、「挨拶したかったんだよ。元気か?」と答える。「挨拶をする」という行為は、彼らにとっては立派な用事なのだろう。それが顔見知りであろうとなかろうと関係ない。自分があいさつしたかったからする、そういうものだ。

日本人に「ニーハオ」と挨拶するのはまだ理解できる。それほどにカメルーンには中国人が多い。一説によると、経済都市のドゥアラだけで1万人もの中国人が住んでいるらしい。しかし、アメリカ人にも「ニーハオ」と話しかけるからカメルーン人は面白い。

ブルキナファソに住む友人が言うに、彼らは「黒い人=アフリカ人」、「白い人=フランス人もしくは中国人」という2パターンしか人種の選択肢を持っていないこともあるらしい。もちろん、普通に教育を受けて育てばそんなことはないのだろうが、「普通に」教育を受けるというのはアフリカでは普通ではない。特に村の人と話していると、中国は知っていても日本を知らなかったり、白い人はアジア人でさえも全員フランス人だと思っていたりもする。私は日本人の中でも特に顔に起伏が少ない、純度100%混じりっ気なしのアジア顔だが、フランス人と間違えられたことがある。白いか黒いか、それが彼らにとっての判断材料なのだろう。外でスポーツをした翌日には「お前はカメルーン人か?」と尋ねられた。確かに日焼けはしているがそれは判断が雑すぎる、とツッコんだが別段笑いは起きなかった。ボケたつもりはないためだ。

 

「ニーハオ」と話しかけられるのを嫌う日本人は多い。カメルーン在住者に限らず世界的に同様らしいという事実に気付くのには時間がかかったが、私がカメルーンに来た当初から、周囲の日本人は不快感を露わにしていた。「バカにされている感じがする。」「挨拶はボンジュール(フランス語の『こんにちは』)でいい。ニーハオと言う必要性が分からない。」という主張が多数派を占める。確かに、バカにしたような言い方で「ニーハオ」と言ってくるカメルーン人もいる。しかし、言い方がよくないだけで何の悪意もなく、ただ挨拶したいだけの人も多い。

 

それを確かめるため、私は「ニーハオ」と声をかけられる度に、「中国と日本の違いを理解しているか。」、「中国は好きか。日本は好きか。」など、言ってきた本人と話してみることにした。すると、カメルーン人が「ニーハオ」と声をかけてくる時、大体4パターンあるということが分かった。

まずは、アジア人を見かけたから特に何も考えずに「ニーハオ」と言ってみたパターン。このタイプには中国は好きか、日本は好きか、と聞いてみたことで大した答えは返ってこないが、何で「ボンジュール」じゃなくて「ニーハオ」を選んだのかという問いに、「テレビで聞いたことがあって言ってみたかったから」という回答が返ってきたのはちょっと面白かった。

次に、日本と中国の違いは理解しているが私のことを中国人と間違えたパターン。このパターンが興味深いのは、中国人は「ニーハオ」、日本人は「こんにちは」だと理解している点だ。しかし私の風貌を見て中国人と間違えてしまっただけなのである。中国人の方が多いため、迷ったら中国人と判断しよう、と思っているのかもしれない。どちらかというとアジア人に対しては好意的に思っている人が多い印象を受ける。

そして、私のことを日本人だと知っているが、日本でも「ニーハオ」と言うと思っているパターン。このパターンの人は、日本ではニーハオとは言わないと指摘すると、90%程度の確率で「日本では何と言うのか」と尋ねてくる。「こんにちは」を教えると次からはこんにちはと挨拶してくれる。

最後に、中国人を敵視しており、差別意識をもって小ばかにしながら「ニーハオ」と言ってくるパターン。全体の1割程度しかいないが、このタイプは確かに存在する。私が中国人ではなく日本人だと説明した途端に好意的な対応に変わるのが特徴で、何故中国人が嫌いなのかと尋ねると「中国人同士で仕事ばかりしてカメルーン人に仕事をくれない。日本人はカメルーン人と一緒に働くから好きだ。」、「挨拶をしても返してくれないし、いつも怒っているように見える。」といった答えが返ってくることが多い。

 

累計100人近くにこの質問をしてみたが、「日本のことが好きか」という質問に「嫌いだ。」と答えた人は1人もいなかった。社交辞令を含んでいるとしても、これはすごいことだと思う。

 

おそらく「『二ーハオ』と声をかけてくるからカメルーン人のことが好きでない」と考えている日本人のほとんどが、相手がどんな気持ちで挨拶しているのか聞こうとせず「ニーハオ」と言われたら全てアジア人を小ばかにしていると結論付けているのだろう。話を聞いてみると、実際にはアジア人に好意を持っている場合がほとんどで、日本やアジアの国で働きたいと思っているカメルーン人も多い。

「将来エムボマのようにJリーグでプレーしたい。ガンバ大阪がいいな。」と語るサッカー少年に出会ったこともある。彼は「日本でも『ニーハオ』と挨拶すると思っているパターン」に該当していたが、今では「こんにちは」と話しかけてくれる。

 


 

終業式で浮かれる子ども達の姿と校長の話の長さはどこの国でも同じだ。

カメルーンで経験する2度目の終業式の日、担任の先生達が気だるそうに発表する「各クラスの『成績トップ5とワースト5』」を聞き流しながらそんなことを考えていた。カメルーンの学校にも日本と同様、春休みが存在し、時期は4月頭からだったり3月末だったりする。厳密にはこの休暇はキリストの復活(カメルーンでは『パック』と呼ばれる)を祝う祭日で、年によってその日程が異なる。私は2015年のこの休暇を利用し、No.1経済都市・ドゥアラとカメルーンきってのリゾート地・クリビに旅行をした。

 

当初、ドゥアラはJICAでは危険エリアと判断されており、私がカメルーンに来た頃は訪れることができなかった。「ドゥアラってそんなに危ないの?」とカメルーン人に尋ねてみたことがあるが、口をそろえて「危ない。おれはドゥアラに行くときは靴下の中にお金を仕込んでいく。バッグには捨て金しか入れない。」や、「私は最低限しか現金は持ち歩かず、ドゥアラで使う分は電子マネーにしていく。」と言う。ドゥアラでは電子マネーが普及しているのか、と全く的外れな想像をしながらドゥアラに行けるようになる日を夢見ていた。そんな私にも2015年1月、チャンスが巡ってきた。隊員総会でドゥアラへの渡航が許可されたのである。

 

JICAカメルーンでは、年に2回、1月と7月に隊員総会というイベントが行われる。主な目的は協力隊員と事務所の意見交換や、連絡事項の共有だ。数少ない、全隊員が首都に揃う日でもある。普段は各任地で活動に邁進している(かどうかは分からないが任地にいる)ため、隊員全員が揃う機会というのは滅多にない。また唯一、隊員からJICAカメルーン事務所に向けて公式な要望を出せる機会でもあるのである。そこで数年前から、「ドゥアラへの渡航を許可してほしい」という要望が上がっていたが、事なかれ主義のJICAはその主張をいなし続けてきた。しかし、JICAカメルーン事務所の所長が交替した最初の総会で事態は急展開した。

所長は「外務省の発表する危険度は首都ヤウンデと同等なのに何故ダメなのか。」という我々の主張をきっかけに再検討し、結果的に「渡航を許可する」という結論を出した。彼は革新派の所長だった。今回の所長はちょっと違うぞ、と隊員が思い始めたのはこれがきっかけだった。「今までダメだったからダメ」そういう考え方をするタイプではないと。確かに彼は一味も二味も違う。

 

晴れてドゥアラに渡航できるようになり、早速名乗りを上げたのは我々のグループだった。ちょっとリッチなバスで首都から4時間強。朝早めに出たので昼過ぎにはドゥアラに到着していた。着くやいなや、「かなり暑いね。あと確かに治安悪そう。」と私の隣人でもあり、今回の同行者の1人でもあるゆっきーなが言った。暑いのもカメルーン人から聞いて知っていたつもりだったが、それをはるかに上回る暑さだ。何もせず座っているだけで汗だくになる。そういった類の暑さは久しぶりだ。日本の夏を思い出す、ジトっと重苦しい暑さだった。汗をぬぐいながら周りを見渡すと、人が集まってきていた。ちょっとリッチなバスだけあって、その利用者は客引きからしてもいいターゲットのようだ。

普通のタクシーやバイクタクシーのドライバーがメインだったが、靴を売りに来ている若者もいた。さすがに到着早々靴は買わんだろ、買うとしてもここでは買わんわ、と心の中でツッコんだ。

人だかりの中にいるのは危険と判断し、その場から逃げるように立ち去りまず宿探しの旅に出た。

 

バスが到着したのはアクワという地区で、中国人街にもなっている。ごちゃごちゃとしており、よく言えば商業の中心地といった感じの雰囲気で、治安はまぁまぁ悪そうだった。ホテルのあては特になかったが、我々はとりあえず「ボナプリゾ」という地区を目指して歩き始めた。行く途中で見つかった適当なホテルに入る予定だった。

そして見つけた「適当なホテル」が「Hotel Sportif」。フランス語でスポーティなホテルという名前のホテルだ。受付に入るとあまりスポーティとは言えない体型をした、おじさんというよりは「おじちゃん」という表現が似合う男性が出迎えてくれた。値段もさほど高くなく、部屋も綺麗だったので今晩の宿はここに決定した。お湯は出なかったが、カメルーンでは珍しいことでもないので気にはならなかった。荷物を置いて小休止した後、またボナプリゾ地区の散策を続けた。私達がボナプリゾにこだわり続けたのには理由があった。

 

日本人が200人もいないカメルーンで、唯一の日本料理屋があるのが、ここドゥアラだ。従業員にはひとりも日本人がいないというのが最大の笑いどころだが、カンボジア人シェフの腕は悪くなかった。今回のドゥアラ旅行の最大の目的は、この日本料理屋を訪れることだった。ボナプリゾを探索し続けていた甲斐あって早々にこのお店を発見した。

アジア人だけあって見た目はかなり日本人に近いシェフは、パリの日本料理店で修業したらしい。我々は寿司セット、トンカツセット、てんぷらセット、焼き鳥(単品)を注文した。「セット」の名に恥じぬようみそ汁とサラダがついてくるのだが、この味噌汁が絶品だった。日本で同じものを飲んでも「美味しいですね。何の出汁ですか。」と店員に質問してしまうだろう。

その他(メインの料理)は特筆して美味しいわけではなかったが、日本食に飢えた我々の胃袋を満たすには十分だった。ビールも飲み、かなり満腹になるまで食べて日本円にして4000円程度。飲み物も含めた値段としては高くはない。ちなみに日本のビールも置いてあったが、あまりの高さに迷わずカメルーンのビールを選んだ。

店員のカメルーン人に「いらっしゃいませ」や「ありがとう」という単語を教え、店を出た。ここには日本人はあまり来ないらしい。

 

宿に戻った我々は少々飲み足りていなかったのでホテルのバーでビールを流し込んだ。テラス席に座ったため、キンキンに冷えたビールを飲みながらでも容易に汗を垂れ流すことができた。その汗のせいかは分からないが、我々は朝まで蚊に悩まされ続けることになった。半寝半起きの状態を繰り返しながら、「蚊が汗に寄って来るというのは本当なのだな」と他人事のように思い、「わかったからもう勘弁してください」とも願った。しかし蚊は勘弁してくれはしなかった。カメルーンの蚊は日本語を理解しないらしい。

蚊が顔の周りをぶんぶん飛んでいても起きもせず、1か所も刺されなかった猛者が1名いたがそれ以外の全員が極度の寝不足の中、クリビ行きのバスを待っていた。ドゥアラからクリビまでは約4時間。この区間にはちょっとリッチなバスは存在しないため、庶民的なバスで向かうことになった。カメルーンの庶民的(一般的)なバスは、4人掛けの椅子に5人座る。しかも出発時刻は決まっておらず、満席になったら出発する。ある意味エコだ。

 

JICAからは「事故に備えてバスの中では寝ないように。」と言われているが、このコンディションで寝ないのは不可能だった。寝ずに無理して起きていて体調を崩すよりはましだ、と自分に言い聞かせ、泥のように寝ながらクリビに到着した。クリビも、ドゥアラと対等に勝負できるほどに暑かった。

久しぶりに見る海岸に興奮し、全員が初めての合コンで無理にテンションを上げる大学生のような声を出した。お世辞にも綺麗とは言い難いが、ビーチもある。

クリビには日本の建てた魚市場があり、毎日多くの海産物が水揚げされその場で売られている。私の住んでいる街は内陸部のため、売られている魚を生で食べると最悪の場合死に至るだろうが、クリビの魚は生で食べても生活に支障はないという。世界一不運な男が食べたとしても、ちょっとお腹が痛い程度で済むであろう。JICAには内緒にしておいたが、私たちも旅行中幾度となく生魚を食べた。久しぶりだったことも手伝い、私は「今までの人生で食べた魚の中で一番旨い」というフレーズを50回は発した。

 

クリビでは現地の隊員宅に1泊、そこそこ高級なホテルに1泊した。そこそこ高級なホテルには白人も多く滞在しており、珍しくヘコヘコしているカメルーン人の姿を見ることができる。アジア人には強気な彼らも、ヨーロッパ人には頭が上がらないようだ。白人が多いことと関係しているかはわからないが、ホテルの近所のレストランでは美味しいピザを食べることができる。そのレストランはそれほど高くもない割にサービスもよく、飲み物もよく冷えている。日本のレストランと違うのは、注文してから出てくるまでに信じられないほど時間を要するという点くらいであろう。大体何人かで連れだって訪れるのでさほど苦ではないが、この時も「遅いね。そろそろ出てくるかな。」と言い始めたころに出てきた。

 

ちょっと高級なホテルには(ほぼ)プライベートビーチ(ホテルの利用客ですらほとんど利用していない)がある。火山の影響で海水が灰色なのが惜しいが、景色はなかなか壮大でよい。どこから入ってきたのか、お土産売りの行商がやってきて「お面とか偶像とかあるけど見てみない?」と岩の上で日焼けに集中していた私に話しかけてきた。どう見てもお土産を買いそうな状態には見えなかっただろうが、そんなことは気にせずフランクに話しかけてきた彼に興味が湧いてしまい、気付いたら彼の商品を手に取って見ていた。ぼったくり価格と逆に安すぎる私の言い値の一本勝負が終結し、結果的に番(つが)いのお面を買った。私の言い値に限りなく近い値段だったが、この値段でも十分に利益があるのだろう。商売とはこうやってやるものなのかと勉強になった。

 

3泊4日、私にとって初めての本格的な国内旅行はこうして終了した。帰りのタクシーで渋滞につかまりながら「ドゥアラで電子マネーが使えるのか」を気にしていなかったことを思い出し、ああ、また来なきゃなと思った。

 

そしてクリビから帰った次の日を境に、私は1週間ほど腹痛に苦しめられた。私は世界一不運な男よりも不運かもしれない。

 


 

「カメルーン」という国名を聞いて、2002年の日韓ワールドカップを思い出す日本人は多いだろう。大分県の中津江村という小さな村がカメルーン代表のキャンプ地に選ばれ、村人総出でカメルーン代表の到着を待った。しかし待てど暮らせどカメルーン代表はやって来ず、最終的には予定より5日ほど遅れて到着した。深夜の到着にもかかわらず盛大な出迎えをした坂本休村長(当時)の人柄と、遅刻という単語では括りきれないほどスケールの大きい遅刻をしたカメルーン代表が日本中で話題を呼び、中津江村の名は一躍全国区となった。

そんな坂本元村長がカメルーンにやってきた。2015年6月9日のことだった。

 

今回坂本さんがカメルーンを来訪したのは、JICAがTMT Japanという大分県の合同企業の事業に対して「中小企業海外展開支援事業」を採択したことに端を発する。TMT Japanは大分の中小企業経営者3名からなる合同会社で、上下水道が十分に整っていないカメルーンで大分産バイオトイレを普及させようと奮闘中だ。そんな彼らが調査のためカメルーンを訪問するにあたり、同国の各大御所に顔が利く坂本さんに同行してもらうことで調査や交渉がスムーズに進むのでは、と考え坂本さんにオファー。坂本さんが快諾し、2005年以来10年ぶりの訪問が実現した。

 

私はというと、TMT Japanが今回の調査の中で大統領生誕の地・メヨメサラ市を表敬訪問する際に「大分県出身でカメルーンに派遣されている唯一の協力隊員」という立場で同行させてもらうことになった。その後、大分県からもう1人隊員が派遣され私のアイデンティティは薄まることになるのだが、この時点では確固たる地位を得ていた。

ちなみに坂本さんはメヨメサラ市の名誉市民でもあり、カメルーンのポール・ビヤ大統領とも面識がある。

 

坂本休元村長、TMT JapanのMさん、JICAカメルーン事務所長という錚々たるメンバーに私が混じった総勢4名を乗せ、JICAの車はメヨメサラへと向かった。

 

メヨメサラ市はカメルーン共和国の首都・ヤウンデから南に4時間ほど走ったところに位置するとても小さい街だ。俗悪な表現を怖れずに言えば、その街にあるものを数えたほうが早いほどに何もない。小さなレストランや学校があるだけで、個人商店すらもほとんど見かけなかった。「大統領生誕の地」と聞いて描いていた私のイメージは崩壊した。

そしてその道中で何よりも私達一行を驚かせたのは、ヤウンデからメヨメサラ市に至るまでの道路の整備状況である。上記の通り特に何もない街ではあるが、その道路は日本の高速道路を上回るほどのクオリティをキープしていた。JICAのランドクルーザーの滑らかな走行と相まって、車に酔いやすい私も揺れをほとんど気にすることなくメヨメサラ市に到着した。

 

到着するやいなや、市長や群長総出での熱烈歓迎を受けた。敬意や親しみを表する相手に挨拶をする際は、相手の頭と自分の頭を左右とも軽く触れさせるのがカメルーン式だ。そのためひどく時間がかかる。またテレビの取材も来ており、カメルーン人にとっての、坂本さんの存在の大きさを痛感した。

その後の市内観光では、まだ稼働していない養魚場、あまり使われていない農作物保管庫、雑草だらけのサッカーグラウンドなどを見学し、「思った以上に何もない。」という感想を抱くのは容易だった。

市内観光に引き続いて執り行われた歓迎セレモニーでは、市長や群長の歓迎の挨拶があったが、主な内容は「先ほどご覧いただいた通り、施設が上手く活用されていません。日本の支援をお願いします。」というものだった。熱烈な歓迎の下には、文字通りの下心があった。しかしそれに対する坂本さんのスピーチは、先ほどまで眠そうにしていたカメルーン人たちの目を一気に覚まさせた。

 

「ここに来るまでの道はとてもきれいに整備されていますが、一台も車とすれ違いませんでした。これは大変残念なことです。この街には、日本にない豊富な資源があります。ただ種を撒くだけで何もしなくてもトウモロコシが実る土地を私は他に知りません。皆さんの努力次第でこの国は必ず発展できるはずです。皆様方はこの資源を有効活用する義務があります。この街が近い将来商業の拠点として栄えることを期待します。」といった趣旨の話をした時、卒業式でダルそうに振る舞うヤンキーのような座り方をしていたカメルーン人たちの背筋が、スッと伸びたのを感じた。

 

この話を受けて具体的にその後どういう動きがあったのかは分からないが、少なくとも歓迎セレモニー後の食事会では、前向きな話ばかりがされていたように思う。TMT Japanのところにも、「バイオトイレに興味がある」というカメルーン人が何人も話を聞きに来ていた。日帰りでの訪問ではあったが、今回のメヨメサラ訪問は有意義なものになったようだ。

 

首都ヤウンデに帰還し、他のTMT Japanのメンバーやコンサルタントの方、JICA事務所のスタッフを交え、盛大な飲み会が開催された。22時半をまわりそろそろお開きか、という時、所長が「明日の予定はどうなってるんですか?」とTMTのコンサルタントに尋ねた。「午前中、小学校を訪問する予定なんですが、まだどの学校に行くかは決まってないんですよね。」との返答が来て所長と私は驚いた。この時間に決まっていなくていつ決まるのか。

しかし後から聞いた話だが、結局次の日の調査活動もなんとか上手くいったらしい。22時半にまだ次の日の予定が決まっていなくても何故かどうにかなってしまう、カメルーンとはそういう国だ。カメルーン人の国民性につられて日本人までいい加減になる。そういう国なのである。

 


 

「お前の実家ラーメン屋なんだっけ?」と聞かれたことがあるが、父は会社員、母は書道家という割と普通の家庭で私は育った。もっとも、その質問の理由もはっきりとわかっている。一般的に、「ラーメンを作る」と言われて思い浮かぶのは、インスタントラーメンの袋を開け熱湯に投入して数分ほぐしたのち、粉末のスープを加えるといったプロセスだろう。食べに来ないかと誘われてもそれほど魅力的でない事は明白であり、さすがの私もインスタントラーメンを一緒に食べないかとわざわざ誰かを家に招待しようとは思わない。

我々のラーメン作りは肉屋で豚骨を調達するところからスタートする。

 

豚骨や背脂を探し回ってまでラーメンを作ろうと思い始めたのは大学2年生のころだ。私が住んでいた学生寮では朝晩と美味しい食事が出るのだが、日曜日だけは休食日となっており、寮生たちは外食するなり自炊するなりして、自力で食事をとらなければならない。そこで暇を持て余していた我々が思いついたのは、「自分達でラーメンを作ってみよう」という一見壮大な計画だった。結論から言うと初回は大失敗した。日曜日丸一日を費やし、ラーメンというよりただの臭いお湯が出来上がった。半ば我慢する形で臭い液体に浮かぶ麺を啜りながら、次回は必ず成功させようと誓ったのである。それから幾度とない小失敗を乗り越えようやく完成したそのスープは、会心と言って差支えない出来だった。

 

そのレシピを基に、私はカメルーンでもラーメンを作っている。自宅でもよく作るが、隊員数人とともにドミトリーでにわかラーメン屋をする。首都の中華料理屋でもラーメンを食べることができるが、日本の豚骨ラーメンの味を期待して食べると、そのあっさり具合に拍子抜けしてしまう。なら作ってしまおう、と思い立ったのがきっかけだ。そのため酔狂で始めた大学時代とはモチベーションが全然違った。日本では麺は市販のものを活用していたが、カメルーンでは中国産の麺しか手に入らず、正直スープの味が台無しになってしまうので、麺も手打ちしている。その模様をSNSに載せたところ、旧友から実家がラーメン屋なのではないかという疑惑が浮上したが、全くそういうことはない。

 

カメルーンに派遣されている協力隊員におけるラーメンの歴史は意外にも古い。私がカメルーンに降り立った時点で帰国していた先輩隊員もラーメン作りにチャレンジしていたようだ。

「ラーメン、それは我々が見た希望の光」

という名言を残したその先輩隊員も、隊員が首都に集まる機会を利用しラーメン作りに励んでいた。

彼は偶然にも私の大学の先輩だった。八王子の森を切り開いて建てられたその大学で4年も過ごすと、フロンティアスピリットが芽生えるのかもしれない。

 


 

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、おれなんて『元気?』すら聞き返したもん。」

という先輩隊員の言葉を噛みしめながら、チケットカウンター前に佇んでいた。7月某日、私はフランス、パリの空港敷地内、電車のチケット売り場にいた。私の言っていることを向こうが理解しているということは分かる。ただ、向こうが何を言っているのか全く分からない。そんな均衡状態のまま30秒以上が経過した。担当のお姉さんがカウンター越しに、将棋のタイマーのように私の返答を急かす目線を送ってきている。

私が聞きたかったのはそんなに難しいことではない。「ここと、ここと、ここに行きたいんだけど、その都度券を買うのと一日券を買うのはどっちが安い?」という旅行者にありがちな質問だ。

「あなたが『なんたら』したいならその都度、『なんたら』したいなら一日券の方がいいわよ」

と係員のお姉さんはにこやかに答えたが、その「なんたら」の部分が聞き取れず、どちらにすればよいか決められなかったのである。何度も聞き返したところで聞き取れるようになるレベルの問題ではない気がして、適当に一日券を買ってみた。早朝のパリで爽やかに笑顔で別れの挨拶をしてみたが、私の心中は爽やかさとは程遠かった。

「これは先が思いやられる」と絶望しながら、もう一度先輩のあの言葉を思い返し、ルーブル美術館行きの電車へと乗り込んだ。

 

私がカメルーンで住んでいるエリアは仏語圏で、日常会話はフランス語だ。ということは必然的に、私も含め、隊員達はフランス語で生活している。

と思っていただけだった。

「フランス」と名前はついているが、実際のところは「カメルーン」語だった。フランス旅行に来て初日、フランス人の発音の滑らかさに全くついていけず、早くもそのことを悟った。

 

ルーブル美術館の近くの『なりたけ』というラーメン屋で、久しぶりに「本物の」ラーメンを食べながらここでバイトしている学生たち(日本人)もみんなフランス語がペラペラなのか、などとうっすらとした劣等感に苛まれていた。そんな精神状況で食べても美味しいのだから、ラーメンという食べ物はすごい。ちなみに『なりたけ』は元々千葉県のお店だ。

 

今回の私のフランス旅行の目的は、語学学校に通い私のフランス語をちょっとはマシなレベルに近づけることだった。青年海外協力隊員は年に20日、海外に旅行できるシステムになっている。今回はそのうち2週間を語学学校、残りを観光に充てていた。5日ほどしかない貴重な観光日の初日が日曜日(つまりお店がほとんど閉まっている日)となってしまったのが非常に残念だったが、その分ゆっくり散歩をしようという優雅な心境になった。

 

その日、凱旋門の下に16時、というトレンディドラマでしか見られないシチュエーションで待ち合わせをしたのは、大学の後輩とだった。彼女は1年ほど前からフランスに留学しており、ここ数カ月はパリに住んでいた。大した予習もせずにとりあえずフランスに来てしまったうえ、日曜日でゴーストタウンと化している街を目の当たりにし、私は何をしていいかわからずとりあえず連絡を取ってみた。

集合場所に現れた彼女の第1声は、「久しぶり」でも「元気だった?」でもなく、「あ、髪切ったんですね。」だった。確かに私はその前々日に髪を切っ(刈られ)たのだが、1年も会ってなかったら普通は1回くらい切るだろう。

彼女の方は1年もフランスに住んでいるにもかかわらず、特別おしゃれになるでもメイクが濃くなるでもなく、何も変わっていなかった。

 

凱旋門に始まりエッフェル塔やルーブル美術館などの定番観光スポットを、全て前を通るだけで入らないという貧乏くさいスタイルで回り、「うわ、思ったより大きいな」などと並レベルのコメントをしながら、人生初のフランス旅行初日が終了した。彼女の語学力はすごかった。同じく1年以上フランス語を勉強している身として負けていられない、と2日後に迫った語学学校へのモチベーションが上がった。

 

「東駅」という名の、決してパリの東には位置しない駅でストラスブールに向かう電車を待ちながら、1時間も早く駅に着いてしまったことを私は後悔していた。日本では、その街の東には「○○東駅」、西側には「○○西駅」があり、南も北も同様だ。パリでは、「東駅」といえば東方面、「北駅」といえば北方面に向かう電車が出ていることを意味し、駅の物理的な立地とは一切関係がないのである。

私の場合はドイツ国境付近のストラスブールという都市に語学留学しようとしているので、「東方面」にあたる。

そして電車の発車時間を過ぎ、そろそろ30分が経過しようとしていた。電車はまだ発車する気配がない。電車が1分遅れただけで謝罪のアナウンスが流れる国で26年間も生活してきた私が、そろそろ車掌に状況を尋ねに行こうかと思った頃、アナウンスが鳴った。

「この電車は故障しているため発車できません。○番ホームの電車に振替になります。」ブチッ

こうして何の説明もないまま30分以上も待たされたあげく、電車を移動することになった。フランス語でしかアナウンスがなかったためポカンとしていた隣の東洋人に「コショウデスネ。」と片言の英語で伝え、隣のホームに移動した。

日本だったら皆キレてるよな、フランス人よく怒らないな、などと思いながらホームを歩いていると、フランス人の家族がわざと駅員に聞こえるように愚痴を言いながら眉間に皺を寄せていた。これはさすがに例外的だったらしい。

 

電車が発車するまでに若干の困難はあったものの、旅自体はすこぶる快適で、窓の外の景色がコンクリートジャングルから田園風景に変わるのを楽しんでいるうちに着いてしまった。

 

ストラスブールという街は私が想像していたよりかなり栄えていた。駅にも無料Wi-Fiがあり、いたるところでスマートフォンやガイドブックなどを覗きながら作戦会議をしている観光客達が目についた。私はというと、朝イチでストラスブールに着いてはみたものの完全ノープランで、特にやりたいこともなかった。しばらく駅で人間観察をしていると、「そろそろ荷物置きたいな」とようやくやりたいことが頭に浮かんだ。まずは宿に向かうことにした。

 

語学学校が用意してくれた宿舎は、ストラスブール随一の観光スポットである「ストラスブール大聖堂」から歩いて3分、という好立地にある私営の寮だった。割り当てられた部屋は6畳ほどで、ベッドと勉強机、ユニットバスというシンプルな作りだが、きれいだった。これで1泊朝食付きで18ユーロは驚異的な安さだ。ただ1点気になるのは、立っているだけで床に水たまりができるほどに汗が滴ることだけだ。「フランスの7月はこんなに暑いのか」と尋ねた私に、コンシェルジュのお兄さんは爽やかに「いや、今年は例外的だ」と答えた。確か去年もテレビのニュースで誰かが同じようなことを言っていた。

例外的な暑さに耐え兼ね、とりあえず飲み物と昼食を調達するため街に繰り出した。

照りつける太陽に、クーラーも扇風機もなしでこの暑さを耐え抜くのか、と一瞬憂鬱になりながら中心街へと向かった。

 

ストラスブールにおけるメインの交通手段はトラム(路面電車)だ。1回券、10枚券、往復券、1日券など色々な種類の買い方が存在し、それぞれの乗り方に合ったものを買う。改札もなく、ただ乗るだけ。非常にシンプルだ。ただ、最も注意しなくてはいけないのは、「買った時点ではなく、刻印した時点で効力が発生する」という点だ。刻印を忘れて乗ってしまったことが発覚すると、「コントローラー」という名の叱責請負人によって激しく叱責され、悪質だと判断された場合は罰金を払うことになる。刻印機は券売機の近くにあるが初心者は忘れがちだ。

この日も、東洋人旅行客のグループが刻印を忘れて乗車してしまい、コントローラーに発見された。激しめに問い詰めたが、旅行者たちがフランス語を理解しないらしいとわかり、コントローラーも急にトーンダウン。特にお咎めもなく解放された。私もフランス語も英語も全く分からない演技の練習をしておこうと思った。

 

コントローラーは駅での停車中に、唐突に電車に乗ってきて唐突にチケットの確認をするのだが、格好が目立つので無賃乗車の客は大体の場合その姿を見つけて逃げる。コントローラーもそれを見つけても特に追いかけたりはしないので、やろうと思えば毎日無賃乗車をすることも不可能ではない。しかし大多数の人がきちんと払って乗っている。人間の良心を最大限尊重した、素晴らしいシステムだ。

 

ストラスブール初日、私は時間を持て余していた。語学学校は明日からだ。トラムはどこまで行っても料金が変わらないので、適当な路線に乗ってぐるぐると回った。昼食は途中で見かけた寿司屋にでも入ってみようかと思ったが、トラムを降りて近くに寄ってみると値段が高い割に全然美味しそうではなかったので、作戦を変更。例外的な暑さの中、徒歩でストラスブール名物の「タルト・フランベ」と「ベッコフ」を探し回った。

ストラスブールは旧ドイツ領のためビールづくりが盛んで、あちこちにビールの醸造所があり、またその多くにバーが併設されている。そこで大体タルト・フランベを食べられると聞いていたので、地元の人おすすめの醸造所併設レストランに行ってみた。

 

トラムを降りて歩き続け1時間以上、私のTシャツは汗によりグレーからダークグレーへ、更にダークグレーから黒へと進化しつつあった。その分ビールが美味しくなると信じ汗を垂れ流し続け、ようやくレストランに到着。

店内からもビール工場が覗ける本格的な作りだった。お昼のピークは少し過ぎていたので店内に人はまばらで、店員すらもまばらだった。大きな声で店員を呼ぶと「1分待ってくれ」と言い10分後にやってきた。忘れているのかと思いもう一度大きな声で呼ぼうとした矢先だった。

 

ここの名物だという、キノコのタルト・フランベとビールを注文した。ストラスブールの醸造所では、「ブラン(白)」、「ブロンド(琥珀)」、「ノワール(黒)」の3種類を作っているのが一般的で、好みに合わせて選ぶことができる。私は店員のお兄さんおすすめのブロンドを注文した。店員を呼んでから注文を取りに来るまでに10分かかったわりに、料理は5,6分で到着した。

 

ストラスブールのビールはすごく美味しかった。カメルーンのビールはとにかくあっさりしておりホップの香りはほとんどしないが、ストラスブールのビールは口に入れた瞬間、フルーティな香りが鼻にすっと抜ける。喉が渇いていたこともあり、ジョッキで4杯飲んでしまった。初日から予想外の出費に財布は悲鳴を上げていたが、上機嫌だった私は帰りにスーパーで24本入りのアルザスビールを購入した。同時に、この地方のビールのことをアルザスビールと呼ぶということを知った。

 

次の日からの語学学校に備え早めに布団に入ったが、例外的な暑さのためなかなか寝られなかったのは言うまでもない。私が持参した温度計付き目覚まし時計には40.8℃と記載されていた。見なければよかった。

 

半寝半起きの状態を繰り返し、若干グロッキー状態のままトラムに乗り込み、グロッキー状態のまま語学学校に到着した。集合時間まであと30分。いつも早く着きすぎてしまうのは私の悪い癖だ。

近くにいたスタッフのお姉さんに「あの、今お時間いいですか」とナンパのように声をかけ、教室まで案内してもらった。

 

教室に着くと、アジア人の女の子が既に来ていた。日本人が偶然同じクラスにいるわけがないと思い、しばらくフランス語で会話をしていたのだが、名前を聞いた瞬間に日本人だと発覚した。クラスメイトは10人いるはずが、定刻までに揃ったのは5人、そのほとんどがアジア人だった。先生も「あの子たちはいつもこうなのよ」と言っていた。どうやら、元々あったクラスに、夏季コースのメンバーが参加する形式のようだ。

我々のクラスは「B1-B2」というレベルに位置していた。

 

フランス語にはDELF/DALFというレベル認定試験があり、下から、A1、A2、B1、B2、C1、C2と別れており、C1とC2はDALFに分類される。大体個人のフランス語習熟度を表すときはこのレベル分けを用いる。

我々のクラス、B1は中級レベルにあたる。担任はAline(アリーヌ)とCeline(セリーヌ)というフランス人女性2名だった。名前が似ているが、姉妹でも何でもない赤の他人らしい。

 

私が参加したのはCIELという学校の夏季コースだ。この学校の授業はグループワークなどの実践的なものを中心に進んでいく。また、週に何度か、午前中しか授業がない日が存在し、午後は自由参加のアクティビティがあるのが特徴だ。そのアクティビティではクラスに関係なく学校中から参加者が集まるので、友人がたくさんできるのが嬉しい。

 

ここでの生活は本当に楽しかった。

授業自体は特別面白かったわけでも特別つまらなかったわけでもなく、至極普通だった。クラスメイトやその他の生徒との学校外の交流が楽しかったのである。

同じ宿舎にクラスメイトのスペイン人と隣のクラスのウクライナ人が住んでいることが発覚し、頻繁に飲みに行った。出会って2日でにこんなに仲良くなれた経験は日本ではなかった。

 

またある日昼食をとっていると、隣の隣の隣のクラスのアメリカ人に「なぁ、山の上にある城に行こうよ」といきなり誘われた。「もう1人の日本人も呼ぼうよ」と言っていたので、これは彼女のことを狙っているな、と思い承諾し、クラスメイトの日本人も誘った。偶然だが、私はその城に元々興味があった。

 

アメリカ人1名と日本人2名がフランス語で会話をするという奇妙なグループは、「HAUT-KOENIGSBOURG城」という未だに読み方の分からない城へと向かった。ストラスブールの中心街から電車やバスを乗り継ぎ、計2時間ほどで山の頂上にある城に到着。頂上までバスで上がる途中、「猿公園」という興味深い施設があったので「帰りに寄ってみる?」と提案してみたが、誰からも返事はなかった。

 

城は、カメルーンでもなかなか見ることのできないほどの大自然の中にあった。山の上にそびえる要塞といった感じで、まさにロードオブザリングの世界に来たような雰囲気を味わうことができ、少年心をくすぐられた。

 

城の見学を終え、ストラスブールに戻ってきた。城の最寄り駅で、アメリカ人のクレジットカードが何故か急に機能しなくなるという問題に見舞われ、私がお金を貸す事例が発生したが、それ以外はスムーズだった。電車の中で3人とも楽器演奏の趣味があることが発覚しテンションが上がりすぎ、横の家族に迷惑そうな目で見られた。

会話が盛り上がっていたので夕食でも一緒に食べて帰るのかと思いきや、ストラスブール駅に着いた瞬間アメリカ人が「あ、そろそろ宿の食事の時間だ。よし、じゃあまた明日学校で。」といって別れた。彼は意外とドライな性格のようだ。

もう1人の日本人と私は同じ宿舎ではないものの近所に住んでいたので散歩をしながら帰った。宿に帰り、この宿舎に来た当初に買った24本のビールが半分ほどに減っているのを見て、来週末にはパリに戻るのかと寂しくもなった。

 

授業最終日は軽めの試験があったものの、いつも通り淡々と進み、アメリカ人ともいつも通りさらっと別れた。この時私は、彼がもう1人の日本人のことを狙っているというのは勘違いだったのかと思ったのだが、1か月後、「おれはもうアメリカにいるんだけど彼女の連絡先知らない?彼女のこと好きだわ。」といきなり打ち明けられた。お互いフランスにいる時に言ってくれれば協力できたのに、なぜこのタイミングなのか。ちなみに私は彼女の連絡先を知らなかった。

 

再びパリに戻って来た私は、大学時代の友人と合流した。彼女は現在はイギリス在住、N○Kの現地法人勤務だ。大学時代はバンドでボーカルを担当し、音楽業界への就職を望んでいたが、何故か回り回ってN○Kという割と硬めの職に就くことになった。今回私に会うためにわざわざフランスまで夜行バスで来てくれたのかと喜んでいたのだが、どうやらディズニーランドパリに行きたいらしかった。彼女と私とパリ在住の後輩、チケットも既に3人分用意してあった。こうして我々はディズニーランドに行くことが決定した。

 

ディズニーランドパリは中心街から電車で1時間ほどの距離だ。電車の中、楽しそうにどのアトラクションから乗ろうかと話している2人を横目に、私は吐き気と格闘していた。電車に酔ったのではない。昨日飲み過ぎたのである。昨夜は3人でワインを飲んでいたのだが、3人で飲むにしては買い過ぎており、あろうことかそれを全部空けていた。後半、ほとんど私が頑張って飲んでいた結果がこれである。

「体調が整いそうな乗り物がいい」という私の悲痛な主張が認められ、入園一発目から「It’s a small world.」でスタート。通常であれば他のアトラクションに飽きてきた頃、箸休めに乗るこのアトラクションを一発目に持ってくるあたり、どれほどの異常事態であったかが伺える。パリのディズニーランドは東京とは違い、全然待たずに乗り物に乗ることができるのがよい。我々は間髪入れず、「カリブの海賊」へと足を向けた。これも他のアトラクションに比べて体調が整いそう、との判断だ。しかしこれが落とし穴だった。

ジェットコースター系ほどではないものの、東京の「カリブの海賊」と違い、若干の激しさを伴っていた。体調が万全な人が乗っても酔う可能性もあるかもしれない。少なくとも、私が再度吐き気を催すには十分だった。「カリブの海賊」のすぐそばのトイレでゲーゲー吐きながら、「パリのディズニーで2日酔いとは、世界一お洒落な2日酔いだ」などと考えていた。おそらくこのディズニーは一生忘れられない場所になるだろう。

一通り胃の内容物を吐き出し終え、急な空腹に襲われた私は、「夜はお寿司にしよう」と主張し始めた。昼食すらもまだとっていない段階でもう夕食の話を持ち出したことに対する一切のツッコミも忘れ、2人とも「いいね」と同意した。海外生活が続いてくるとどうしても日本食というキーワードに敏感になるのである。気付くと、私の体調も完全に治っていた。結果的に、「カリブの海賊」によって体調が整うことになった。

最後に「エアロスミスコースター」というディズニー要素ゼロのアトラクションに乗り終え、パリ中心街に位置する、日本人が経営する寿司屋へと向かった。

 

朝の時点では、3人ともまさか寿司屋に来るとは思っていなかったので、他の客に比べ圧倒的にカジュアルな格好での入店となった。

 

茶碗蒸しや握り寿司など、久しぶりの本格的な日本料理を楽しんだ。パリにいくつもある日本料理店のほとんどを経営しているのは中国人やベトナム人だ。そんな中、完全に日本人が経営しているこの日本料理屋は別格の美味しさだと推測される。お会計は1人40ユーロほどだった。5000円弱と考えると決して安くはないし、普段パン1個が20円という国で暮らしている私にとってはかなり高級な部類だが、このお店にはフランス滞在中あと2回も通ったのである。それほど「本物の」寿司に飢えていた。

 

「パリ」と名前はついているが、パリの中心街からバスで1時間、私は20日前と同じくシャルルドゴール空港にいた。明らかに手荷物として持ち込める大きさではないスーツケースを持ち込もうとし、係員に「追加料金がかかるよ」と言われているおばちゃんを見た。完全に自分が悪いのに納得いかない顔で舌打ちをする黒人のおばちゃんを見て、もうカメルーンに帰ってきたのかと錯覚し、不思議と安心するような気持になった。

フランスはかなり楽しかったし別世界だった。だが、カメルーンの不衛生さやガサツさが少し懐かしくもなりつつあるタイミングでの帰国だった。旅行はちょっと物足りないくらいがいいとよく言うが、そういう意味では少し長かったかもしれない。

 

カメルーンの首都・ヤウンデの空港に降り立ち、荷物を受け取って外に出ようとした瞬間にタクシーの客引きにつかまり、煩わしいなと思いながらもちょっと嬉しかった。フランスでは、どこからどう見ても道に迷っている風で歩いていても、誰からも話しかけられず、寂しい思いをしていた。カメルーンでは何もせず立っているだけで色んな人が絡んでくる。

 

こう思うのはカメルーン人の暑苦しさに私が慣れてきた証拠だろう。

 


 

私の勤務先では、7月頭から8月終わりまで夏休みが続く。フランスから帰ったのが7月末。普段から大した働きはしていないにもかかわらず、まだ1か月近くも休めると安堵した。

たっぷりある自由な時間を有効活用すべく、8月には「現地語学フォローアップ研修」という研修を企画し、参加した。

フランスでも語学学校に通っていたのに更にカメルーンでも語学研修を受けるとは、私にはフランス語の鬼が宿っていた。その鬼も今はどこに消えてしまったのか。探す気力もない。

 

これは現地で半年以上過ごしてきた、語学に悩む隊員を対象としたJICAの研修で、講師探しや日程決めまで全て隊員側で行うのが特徴だ。「海外で2年間暮らした」というと何もしなくてもペラペラになりそうなものだが、意外とそんなことはない。これを執筆している時点の私も思ったようにフランス語が上達しておらず絶望しているのだが、当時の私には知る由もない。2年暮らして帰国する先輩でも、来た当初と全くフランス語のレベルが変わっていないということはよくある。フランス語に致命的な欠陥があり習得が難しいのか、カメルーン隊の言語能力が低いのかははっきり言えないが、とにかくみんな多かれ少なかれフランス語に関する悩みは持っている。

 

今回この研修に参加したのは私を含めた5人、私以外は私より3か月早くカメルーンに来た先輩隊員だった。仏語のレベルは大体同じくらいだ。そしてその参加者の特徴は、1人を除いて全員が頑固な風邪をひいていたということだ。

鼻をかむ音とタンの絡んだ咳が一日中鳴り響く中、授業は進んだ。しかもあろうことか、授業内容は我々が提案した「会話を中心とした実践的なトレーニング」だった。そんな状況で傷んだ喉が回復するわけもなく、研修に入った時と全く同じコンディションで5日間の日程は幕を閉じた。「栄養のあるものを食べよう」と毎日気合を入れて野菜をたっぷり摂れるメニューを自炊をしていたが、そんな苦労も無駄だったようだ。

 

唯一健康な状態で研修に臨んだメンバーは、最後まで健康を貫き通した。

華奢で色白な、新卒の女の子だ。彼女は明らかにアフリカには適合しなそうな日本人らしい見た目をしているが、普段から誰よりも健康に日々を過ごしている。この研修を通して学んだのは、「人は見かけによらない。」ということだ。体調不良のせいか、その他フランス語に関する情報は私の頭から抜け落ちていった。

 

 

 


 

夏休みを終え、同期のマルちゃんと私はカメルーン派遣1周年を迎えていた。夏休み中に同期が1名帰国してしまい、当初4人いた同期も、折り返し地点を前にとうとう2人になってしまった。1名はアレルギー、1名はハプニングによる帰国だった。ハプニングの内容は書けないが、逆ナンパには簡単について行かないように気を付けようと誓った。

 

協力隊員は任期1年を迎える頃、「中間発表会」というものを行う。大体は帰国を間近に控えた先輩隊員の「最終報告会」と同時開催となる。我々は26年度2次隊という隊次なので、25年度2次隊の先輩との抱き合わせ開催となった。偶然にも、25年度2次隊も同期を失い2名になってしまった隊次だった。また、私の唯一の同期・マルちゃんは「コミュニティ開発」、私は「コンピュータ技術」、彼らも「コミュニティ開発」とPC隊員のコンビだった。何かと縁のある先輩たちだった。

 

発表会には数多くの隊員や、名物所長を筆頭にJICA職員が顔を並べた。

発表は我々の隊次からスタート。私はトップバッターだ。「今日は笑いを取らないと帰れないぞ」という兵庫県出身の同期・マルちゃんからの視線を感じながらの登壇となった。

 

「この建物は曲がって見えますが、私の写真技術によるもので、建築的には問題ありません。」という、職場紹介に絡めたボケがひと笑いも取れなかったのを皮切りに、全体的にスベりやすいグラウンドコンディションを作り上げてしまい、トップとしては非常にまずい展開となった。同期のマルちゃんは「このお店は人間以外にも人気で、犬が入ってきたり、出て行ったりもします。」と同じく写真を駆使したライトなボケをはさみ挽回を図ってくれたが、失敗に終わった。

 

その後も先輩たちが汚名を返上すべく、積極的に笑いを取りに行ったが、全体的に小笑いくらいの仕上がりに落ち着いてしまった。発表会後の所長面談で、「みんな話が上手いなー。感動したよ。」と褒められ、おそらく本心から言ってくれたのだろうが皮肉に聞こえてしまう程、我々は落ち込んでいた。

 

こうしてマルちゃんと私の活動は折り返しを迎えた。

打ち上げと称して、発表会での心の傷を舐めあいつつ食べたチキンの味は忘れられない。

 


 

「1年経ったらチホの任地で同窓会ね。」

この駒ケ根訓練時代の約束が現実のものになろうとは、正直想像していなかった。チホというのは駒ケ根訓練時代のフランス語のクラスメイトで、現在は「コミュニティ開発」の隊員としてセネガルで活動中だ。

訓練時代を懐かしく思いながら、2015年12月末、私はセネガルの空港に降り立った。

深夜2時に空港に到着し、体に鞭を打ちその日のうちに早速向かったのは、「カオラック」というセネガル西部の大きな街だ。そこでクラスメイトのチホ、ジョージ、モコと合流することになっていた。私が訪れたその日、カオラックではイスラム教の大きな祭が行われており、「メディナ」と呼ばれる市街地は人でごった返していた。そのため合流するのにかなりの時間を要した。その間、露天商でRayBan(偽物)のサングラスを購入するなどして時間を潰しつつ、クラスメイト達と約1年ぶりの再会を果たした。

この日はチホの友人のセネガル人宅にお世話になり、蚊が多過ぎて全然寝られないという夜を体験した。カオラックは「ゴミとハエの街」とよく言われるらしいが、そこに蚊も加えてあげてほしいと思った。

そのお宅の食事は美味しく、そのうえ寝心地までよかったらただで泊めてもらっては申し訳なさで潰されてしまうから、ちょっと寝られないくらいがちょうどよかったのだ、と自分に言い聞かせ、家を後にした。

こうして丸2日ほとんど寝ないまま、転倒寸前の体で向かったのは、カオラックからバスで30分ほど走ったところに位置する村、ンドファンだ。ここはチホの任地であり、小学校教師として活動する隊員も住んでいる。

ここで一足先に到着していたクラスメイトのミユと合流し、ようやく今回の参加者全員が揃った。

料理をしながら、ダラダラしながら、夜風に当たりながら、色々な話をした。環境が変わると会話の内容も変わるもので、他の訓練生の噂話やJICAの愚痴ばかり言っていた訓練生時代と異なり、主な話題は自分の派遣国の人々についてだった。ミユはブルキナファソ、ジョージはベナン、チホとモコはセネガル、そして私はカメルーンに派遣されている。アフリカに住みながら、他のアフリカで暮らす日本人の話を聞くのは初めてのことだった。

協力隊に入るまではカメルーンの場所も、ベナンという国の存在も、ブルキナファソが仏語圏であることも、セネガルが西アフリカの中ではかなり発展した国であることも知らなかった。そんな私たちがお互いに自分の知っているアフリカの話をする。日本に住んでいたころの私はこの光景を想像することができただろうか。

 

この日分かったことは、劣等感に満ちているが人柄が良く牧歌的なブルキナファソ人、とにかく世話好きなセネガル人、偉そうで、やたらと絡みたがるベナン人とカメルーン人、というアフリカ各国の性質だった。

初めて、ベナン人とカメルーン人が似ていること、ブルキナファソやセネガルを含む西アフリカの方がいい人が多いということを悟った。

 

刺激的な話が多かった同窓会を終え、私はンドファンからジュルベルという街へ向かった。ここでは駒ケ根訓練時代同じ班で生活した、ナルとじーつーと会う約束をしていた。じーつーは班長、ナルは副班長だった。

「ガソリンスタンドの正面の家にいるからそこまで来て。」とナルに言われたため、ガソリンスタンドでじーつーと待ち合わせることにした。

ガソリンスタンドで待っていると、ロングヘアーをなびかせながらじーつーがやってきた。カメルーンでは長髪の白人男性は女性と間違えられるのだが、セネガルでも同様らしい。もう1年近くセネガルに住んでいる彼の見た目は、アフリカ人というよりはベトナム人に近づいていた。

じーつーとともに、ナルが待っているというお宅に立ち寄ると、10人ほどのマダムに囲まれ、ナルが談笑していた。ナルはこの家でよく昼食をごちそうになっているらしい。セネガルで活動をする他の隊員からも聞いた話だが、ここの隊員は現地人の家で食事をごちそうになったり、話し込んでそのまま泊まっていったりもするらしい。

カメルーンの隊員ではあまり聞いたことのない光景だが、セネガルの隊員が「セネガル人は人がいい」としきりに褒めるのは、そうやって積極的に関わろうとしているからこそ、いいところが目に入るのだろう、とカメルーン人の愚痴ばかり言っている自分を恥じた。

訓練時代7班という班でともに生活した仲間と無事合流し、我々が向かったのはバーだった。

「セネガルのビール飲んだ?結構美味しいんだよ。」というナルの提案だ。

セネガルに来てまだ1度もお酒を口にしていなかった私は、脊髄反射で同意した。

 

セネガルに来てお酒を飲んでいなかったのには理由がある。

セネガルは、キリスト教とイスラム教が共存しているカメルーンとは違い、イスラム教徒が大多数を占める。イスラム法では飲酒は明確に禁止されており、神への忠誠を誓う意味でもそれを遵守しているのである。

もちろん、カメルーンにいるイスラム教徒もほとんどお酒は飲まない。イスラム教における飲酒は、ごく一部の厳格でない教徒のみに見られる文化だ。

そのため、100mおきにバーがあるカメルーンと比較すると、セネガルでお酒を購入することはひどく困難なのである。バーは存在していても他の店の奥に隠されていたり、パッと見にはバーと分からないような細工がされていたりする。これまでのところ、素人の私には見つけることはできなかった。

ここジュルベルには大きなバーがあり、よく冷えたビールを飲むことができる。ナルはここによく来るらしい。酒好きの班員を持って私は幸せだ。

お互い、セネガルやカメルーンでの暮らしについて話しながら、真昼間から3本ずつ飲んだ。2種類のビールを飲んだが、「Gazellle(ガゼル)」というアルコール度数の低いものが私の舌に合った。

その間、酔っ払いのセネガル人が絡んできたが、その絡み方がカメルーン人と全く同じで、面白かった。彼らのターゲットは若い女性なので、坊主頭が伸びっぱなしになったような髪型の私や、長髪ベトナム人風のじーつーには見向きもしない。ナルにひたすら「結婚してるのか?」「こいつらのどっちがボーイフレンドなのか?」などと話しかけているが、ナルは軽くあしらっている。最終的に「近所で印刷屋をやっているから今度来いよ。」と宣伝をして帰って行った。

夜、自宅で3人でモノポリーをしながら、ジュルベルにはちょくちょく酔っ払いがいるのがちょっとアレだね、と言ったナルに、これが全域に広がった状態がカメルーンだよ、と返すと苦笑いをしていた。

 

ジュルベルを出た私はティエスという街を経由し、観光地であるサンルイに向かった。

サンルイに向かう車を捕まえるべく、ティエスのターミナルで「サンルイ!サンルイ!」と叫んでいたが、案内係がなかなか理解してくれない。付き添ってくれたティエス隊員のムトー君に

「『センルイ』って言った方が通じますよ、世界のナベアツみたいに。」と言われ、絶対に嘘だ、からかっているだけだ、とは思ったものの失うものは何もないので「サンルイ」が3の倍数であるかのように「セぇンルイ」と言ってみた。1発で通じた。私の人生でこれほど世界のナベアツ氏に感謝したことは他にない。

無事サンルイに到着した私は、同じ九州出身のウォーターピーチフラワーの自宅へ。彼女は先日泥棒に入られたらしく、セキュリティ対策工事のためあまり家を離れることができず、あんまり相手ができなくてごめん、と言っていた。

しかし次の日に日本企業のセネガル法人で働く日本人と、首都ダカールで活動する隊員がサンルイを訪ねてきたので、私は暇を持て余すこともなくサンルイを満喫できた。

サンルイから車で1時間強走ったところに、鳥公園という名前の国立公園がある。我々はそこを訪れる予定にしていたので、前日夜にウォーターピーチにそこの感想を聞いてみたところ、「ドン引きするほどペリカンがいる。・・・・・・まぁそれだけかな。」と言われ我々の不安は募ったが、怖いもの見たさの好奇心は掻き立てられた。

鳥公園では、ボートで湖を一周し、その間に数々の鳥を観察することができる。ガイドは英語とフランス語を織り交ぜながら詳しく説明してくれたが、私は鳥に明るい方ではないので、日本語でもほとんど理解できなかったであろう。そしておそらく、日本には存在しない鳥が多かったのだろう。

その間、ワニの交尾を邪魔したりもしながらクルーズは進み、道程の最深部に「ドン引きするほどペリカンがいる」島はあった。

近づいてくるにつれペリカン臭が漂ってきた。今回ツアーに参加した全員が、ペリカン臭という存在を人生で初めて認識した瞬間であろう。獣臭に魚の生臭さが見事にミックスし、それこそまさに「ドン引きするほどのペリカン」を予感させた。

姿を現したその小さな島に、それこそ所狭しとペリカンが鎮座していた。あまりの狭さに着陸を諦め、飛行を続けたペリカンもいたほどだ。

帰りの車中、ダート走行の中爆睡する私以外のメンバーを横目に、「どうだった?」と聞かれた際の感想を考えていた。思い出す風景はワニの交尾を邪魔したことと、これ以上入りきらないほどのペリカンに満たされた小島。

やはりどれだけ考えても「ドン引きするほどペリカンがいる」以外のフレーズは思いつかなかった。彼女は正しかった。

 

サンルイに戻り、感想を聞かれたので、「ドン引きするほどペリカンがいた」とお決まりのフレーズを発すると、満面の笑みで「でしょ?」と言われた。今後も、あの場所を訪れる何人もの日本人が、同じ感想を抱き続けるのであろう。

 

サンルイを後にした私は、首都のダカールへと向かった、これまでは主にセネガルの隊員と行動を共にしてきたが、最終日は偶然同じタイミングでセネガルに旅行に来ていたカメルーンの隊員と合流し、一緒に夕食をとった。

選んだお店は、セネガルの隊員から教わった、ウナギが食べられるという韓国料理屋。アフリカでウナギが食べられると聞いたときは驚いたが、韓国料理屋だとわかりもっと驚いた。訪れてみるとそこは想像以上にこじんまりとした家庭料理屋だった。ここを見つけ、更にウナギがあると最初に発見した隊員はすごい。

本当に美味しいのか、我々の舌がウナギの味を渇望していたのかは分からないが、あまりの美味しさに2人で2皿をペロッと完食し、さらにもっと価格が安ければ数回の追加注文をも辞さないような勢いであった。しかし一皿約3000円というのは協力隊員の身にはかなり高額だったので自粛を強いられ、その他のそれほど高くないメニューでお腹を満たし、退店した。

 

セネガル最後の食事が全くセネガルを感じさせないものではあったが、私は今回の度に非常に満足していた。訓練時代の同期に久しぶりに会えたということもあるが、もっとしっくり来る理由があった。

それは、カメルーンとセネガルは民族も宗教も違うが、根本的にはそれほど変わらないと分かったということである。セネガルの隊員は「セネガルは本当にいいところだし、セネガル人もいい人ばかり。一生住んでもいい。」とよく言っているので、どれほどの楽園かと思っていたが、正直私はそれほどカメルーンとの違いを感じなかった。

今回の旅行中、確かに優しい人にも多く出会ったが、ぼったくりタクシーも、しつこい客引きも、うるさい酔っ払いもいた。同期は泥棒にも入られていた。これはどれもカメルーンでも見る光景だ。強いて言うなら街を歩いていて「ニーハオニーハオ」と絡んでこないところは非常に快適だったが、それ以外はさほど変わらなかった印象を受ける。

カメルーンにいる日本人は私も含めて、カメルーン人の愚痴をいうことも多いが、案外悪くないじゃないかカメルーン、と思えるきっかけとなる旅だった。あれだけみんなが褒めるセネガルもカメルーンとさほど変わらないということが分かったことは、私にとって大きな収穫となった。

 

他の国を見て自分の住んでいる国を再発見するのも面白い。

そんなことを考えながら、セネガルの空港で飛行機を待ちながら、私の2015年は幕を閉じた。

 

2015年