すみません、写真撮ってもらえますか。と声をかけた相手が私と共にカメルーンに飛び立つ、「マルちゃん」だったのは偶然だろうか。
10月初日の夜、我々カメルーン隊4人は羽田空港国際線ターミナルにいた。駒ケ根での派遣前訓練を終えてから2週間、いよいよ出発日を迎えたのである。平日にもかかわらず、大学時代の友人数名が仕事の後わざわざ見送りに来てくれ、出発前最後の記念撮影をした。そのシャッターを押したのは偶然か必然か、その付近をうろついていた「マルちゃん」だった。彼とはその10か月後、唯一の同期隊員として絆が深まることになるのだが、そのエピソードはまた後述する。この時点では、同期は4人いた。
大学の友人に別れを告げ、4人でホットドッグを食し出発時刻を待った。私と共にカメルーンに向かうのは、私と同じPC隊員でカメルーン同期の紅一点・キョンキョン、熊本出身で4人の中で最年長・モンちゃん、兵庫県出身のムードメーカー・マルちゃんの3人だ。大して美味しくもないホットドッグを食べながら、「フランクフルトのソーセージはやっぱり美味しいのかな」などとくだらない話をしながらひたすらに待った。駒ケ根時代から仲がいいのだけが誇りだった。この時は皆でそろって元気に帰国できるものと期待していたのだが、遠くない未来、その期待は裏切られることになる。
その数時間後、我々が登場するフランクフルト行きの便は定刻に出発した。通常であればカメルーン隊はパリ行きのエールフランスを利用するのだが、エールフランスのストライキにより今回の渡航ルートは少々特殊だった。羽田空港を出発し、フランクフルト、ブリュッセルと2回の乗り換えを経てカメルーンの首都ヤウンデへと到着する。フランクフルトでの乗り継ぎ時間はわずかに1時間半だったため、小走りでソーセージを買い、頬張りながらの搭乗となった。そんな状況で食べても美味しいのだから、ゆっくり落ち着いて食べても大して美味しくない羽田空港のホットドッグには勝ち目がないのは明白だった。一方でブリュッセルでの乗り継ぎ時間はたっぷり7時間。暇を持て余した我々は空港内のバーで時間を潰した。そのバーでは偶然、カメルーン人の青年が働いていた。彼が流暢な英語とフランス語を使いこなしていたことが、カメルーンがバイリンガル国家であることを物語っていた。
26時間にも及ぶ長旅を終え、カメルーンの空港にはほぼ定刻通りに到着した。到着早々、空港の警官にモンちゃんがお金を騙し取られる事態が発生したが、本人の名誉のために詳述はしないでおこう。国家権力が外国人に平気でお金を要求する。カメルーンとはそういう国なのだ。空港から、我々がこの先1か月間生活する隊員連絡所(通称「ドミ」)まではJICAの車で向かった。ドミに着いたのは22時半頃だったが、多くの先輩隊員が出迎えてくれた。
カメルーン隊は、少人数ながらアットホームな雰囲気がウリらしい。お腹は1ミリも空いていなかったが、わざわざ食事を用意して待っていてくれた先輩隊員に恥をかかせないためにも大食い担当の丸ちゃんと私は結構頑張った。頑張ったというよりは、機内食よりもはるかに美味しい食事に感動し自然と箸が進んだと言った方が近い。カメルーンではお米が簡単に食べられると知り、安堵したのもこの時だった。また、先輩の残していったレシピがあるので我々の努力次第では納豆も作ることが可能だ。この日は先輩と色々な話をしているうちに深夜2時になっていた。その6時間後にはJICAの車が迎えに来るのでいそいそと寝たが、近所で放し飼いにされている鶏にすぐに起こされる結果となった。
次の日から、眠い目をこすりながらJICA事務所での研修に参加した。初日はJICAの車でヤウンデ市内を見て回るツアーがメインだった。私にとっての「初めてのアフリカ」は、思ったよりも都会だった。高層ビルはあまりないにせよ、大通りはほぼ舗装されており、大型のスーパーやサッカースタジアム、ヒルトンホテルもあるなど、生まれてからずっと日本で育ってきた「一般的な日本人」が思い浮かべるアフリカ像とはかなり違っていた。そして一番印象的だったのは、それほど暑くないという点だ。
アフリカ、しかも赤道付近というと、灼熱地獄を想像するのが普通だ。しかし昨日の夜到着した際にも思ったが、朝晩は寒いくらいに涼しく、日中も最大30℃ほどまでしか上がらない。年間を通じて最低20℃、最高30℃程という非常に過ごしやすい気候をしている。JICAのボランティア調整員にその話をしたところ、「そうですね。気候『は』非常にいいと思いますね。」という返答が返って来たのが気になったが、とにかく気候「は」いいようだ。とはいってもJICA事務所からドミまで30分、道中の60%が坂という難コースを歩破すればそれなりに汗だくになることは可能で、方向音痴な我々は道にも迷うというオプション付きだった。
研修初日の夜は先輩隊員主催の歓迎会が開催された。ドミからタクシーで10分程度の、BUNKER(ブンケ)というレストランだ。ここは魚料理が美味しいというので、皆で焼き魚を食べた。魚の種類は日本でいうサバで、見た目も日本の焼き魚とほとんど変わらない。脇に緑色のソースがかかっているのと、魚の上に刻んだ玉ねぎが乗っていること以外はほとんど違いはないように思えた。しかし食べてみて度肝を抜かれた。日本の焼き魚をもしかしたら上回るのでは、というほどに美味しいのである。大分の港の近くで育ち、毎日のように魚を食べていた私が言うのだから間違いはない。脇に添えられた緑のソースに秘密があったのだ。後からわかったことだがこのソースはネギやセロリ、ハーブなどをミキサーにかけ、塩を加えたものだった。それが日本人の舌に合わないわけがない。その味に感激した私が先輩隊員に「カメルーンってご飯美味しいんですか?」と尋ねたところ、「うん。食事『は』かなりいい国だと思うよ。肉も魚も野菜も豊富で。」と意味深な返答が来たのだが、「食事がいいならいいじゃないですか」と追撃した私に「まぁそのうちわかるよ」と先輩はあいまいに答えただけだった。
その後一週間ほど、JICA事務所で安全や健康に関する研修を受けた後、メインは現地語学研修へと変わった。
語学研修序盤の2週間、カメルーン人宅にホームステイをする。私が滞在したのは、メンドンという地区に住む家族だった。父親は軍医、母親は大学教授、長男次男は大学生(外交官と社会学者志望)、娘は高校生というエリートの一家で、主に私のフランス語を直してくれたのは娘だった。
語学研修自体は事務所近くの語学学校で行われる。私の隊次は4人いたので、2人ずつ2クラスに分かれカメルーン人教師による授業を受けた。私は紅一点のキョンキョンと同じクラスで、アルレットというJICA御用達講師が担任だった。彼女は明るく元気で、雑談が多いながらも駒ケ根で習ったことの復習から始まり、新しい文法まで幅広く進める手腕も持っていた。私が将来フランス語講師になったらあんな教え方をしたいなとも思った。
そしてホームステイが始まり数日経った頃、事件が起こった。
ホームステイ先から語学学校へ向かうタクシーの中、
「朝、『プルーン』食べてから体調が悪い。」キョンキョンが蚊の鳴くような声で言った。
「プルーン」というのはカメルーン語、一般的にはサフーといって簡単に栽培でき栄養価が高いのがウリの、アフリカでよく見かける果物である。日本で人気の、レーズンを大きくしたようなプルーンとは全く違う。食感は焼き芋、味はレモンだ。私は出来れば2度と食べたくはないのだが、美味しいかどうかは人それぞれだろう。
ぐったりしながらなんとか学校には到着したもののキョンキョンの体調は回復しなかった。
「ちょっと来て!キョンキョンが大変!」という先生の声で私達は外に飛び出した。
数分前に「外で健康管理員に電話してくる」そう言って出て行ったキョンキョンが外のベンチで倒れていた。幸い、健康管理員への電話は済んでいたようで、すぐにJICAの車が到着しそのまま緊急入院となった。検査の結果、サフーに含まれるアレルギー物質が原因のアナフィラキシーショックだったことがわかった。約2週間後、キョンキョンの任期短縮、帰国が決まった。
紅一点のキョンキョンがカメルーンを去ってから、残された野郎3人は凹んでいた。今回キョンキョンが体調を崩した時、「次何かあったら多分キョンキョン帰国だよね。それはほんとに嫌だね。」と3人で話していたのである。
「国際協力」という仕事に対して人一倍アツい想いを持ち、協力隊への参加を母親に猛烈に反対されながらも超大手企業を退職して参加。技術補完研修でも彼女は誰よりも優秀でアツかった。彼女と同じ国に派遣されると知った時は少し緊張したのを今でも覚えている。彼女がいれば私達野郎3人の弛んだ気持ちを引き締めてくれる、そう思い頼り切っていた部分もあった。そんな彼女が最初に帰国。なんという皮肉だろうか。彼女の無念は本当に計り知れない。精一杯活動に打ち込むことが彼女への応援にも繋がると思い自らを鼓舞した。幸い、そんな彼女も帰国後すぐに国際開発系のコンサルティング会社に就職が決まり、今はバリバリ働いている。そのうち仕事でカメルーンと関わる機会が来ることを願うばかりだ。
「あのさぁ、如意棒がないねんけど知らん?」とマルちゃんに言われたとき、ボケだと思って無視しようとしていたが、彼にとっては深刻な事態が発生していた。キョンキョンの帰国から2週間後、我々3人は目前に迫った各配属先地域への引っ越しに備え首都で買い物に勤しんでいた。マルちゃんの言う「如意棒」とは、つい先日買ったデッキブラシの柄のことだった。フランス系スーパーのCasinoで買っただけあって鮮やかな橙色をしており、確かに如意棒に似ていた。彼はひどく気に入っていたのだがいつの間にか紛失していた。おそらくどこかに忘れてきてしまったか、誰かが誤って捨ててしまったのだろう。私なら諦めて近所の商店で代わりの物を買うが、その日のうちにわざわざそのスーパーまで走って買いに行った彼の行動力には脱帽せざるを得ない。
如意棒紛失事件の他にも「スーパーの床ヌルヌル事件」や「世界で一着しかないユニフォーム消失事件」、「コショウ暴発事件」、「孤独な食中毒事件」など、首都滞在中には様々なエピソードがあったが、彼の不幸話を書き始めるとキリがないのでこの辺にしておく。
そして2014年11月、カメルーンに来てから1か月と少し経ち、我々の活動が本格的にスタートした。
私が任地エボロワに着いたのは午前11時ごろだった。基本的には移動はカメルーンのバス会社を利用するが、最初の引っ越し時のみJICAの車で送ってくれることになっている。家に荷物を搬入したのち、昼食をとりながら私の配属先長と連絡が取れるのを待った。JICA用語で配属先地域のことを「任地」と呼ぶのだが、本来であれば任地に配属されてすぐ配属先機関に表敬訪問に行くことになっている。私の配属先は「中等教育省 ンヴィラ県事務所」という機関で、日本でいう文部科学省の県事務所だと思ってもらえればよい。そこの長は着任2年目の女性で、好意的ではあるもののあまり我々ボランティアに興味がなく、かつ多忙のためなかなかアポが取れない。結局、その日も彼女は不在だったため挨拶することは叶わなかった。
JICAボランティアには「配属先」の他に「活動先」という概念もある。この括りにどんな意味があるのかはよくわからないがJICAはこの用語にやたらとこだわっているようで、私の場合、活動先は配属先とは別の「リセテクニック・エボロワ」という中高一貫校である。この学校は日本の商業高校と工業高校を足して2で割り忘れたような学校で、「商業セクション」と「工業セクション」に分かれている。「商業セクション」には会計科、秘書科、経済科、家政科などがあり、「工業セクション」には木工科、被服科、電気科、建築科、衛生科などがある。この学校は所属する科によって学ぶ内容がかなり異なり、かつ実践的な授業が多いのが特徴だ。建築科は男子ばかり、家政科や被服科は女子ばかりのため、共学でありながら男子校と女子高が同敷地内にあるかのような感覚を覚える。ちなみに校長は女性である。配属先、活動先ともに長は女性だ。エボロワは女性が強い街なのかもしれない。
エボロワという街は首都のヤウンデから南170㎞に位置し、南部州の州都というだけあってそこそこ発展した街だ。テレビや冷蔵庫などの家電から洗剤や柔軟剤などの日用品まで簡単に手に入り、道路もかなりの割合舗装されている。唯一の難点として生活インフラが弱いということが挙げられる。水道がきちんと通っている家は珍しく、通っていたとしてもオリンピックの365倍以上のペースで断水がある。そして一度断水すると、オリンピックの開催期間ほど継続することも稀にある。電気も同様に不安定で、1週間を通して停電が一度もないということはほとんどない。一方でインターネットは日本と変わらないほど速いため、カメルーン人のこだわりどころが私には分からない。私だったら先に水道や電気を完璧にしたいが、おそらく生まれた時からこの状況なのでさほど困っていないのであろう。
エボロワという街をトータルで見ると適度に栄えていて適度に田舎、非常に過ごしやすい街だ。住むにはいいが、観光で来てもあまり見どころは多くない。以前福岡県出身の友人が地元について「住むにはいいけど観光が少ない。」と語っていた。残念ながら、エボロワの観光は福岡ほども多くない。私はそんなエボロワを愛しており、ここに住む他の隊員達もまた同様だ。「腐ったチンパンジー」という意味の名前を持つこの街を。想像しただけで身体中の血液が腐敗臭に変わってしまうかのようなネーミングをしていてこんなにも外国人から愛されている街が日本にもあるのだとしたら、行ってみたい。
私がエボロワに配属された時既に隊員が一名おり、計2名だった。それがだんだんと増え1年後には最終的には4名になった。
エトゥンディさんは本当に多忙な人で、彼と話すには朝早くから彼の事務所前で待ち伏せし、出勤時を捉まえるしか方法はない。白髪で白髭、モーガン・フリーマンを優しくしたような風貌からもその忙しさが滲み出ている。彼はこの学校のPCルームを管理しており、いわば私の直属の上司と言える。私の前任者から、「学校に配属されたらまずエトゥンディさんに話を聞いてみてくれ」と言われていた。彼が仕事をくれるはずだと。
彼から与えられた最初の仕事は、朝一番に彼から鍵を受け取りPCルームを開ける。そして各トラブルに対応しながらマシンのメンテナンスをするというものだった。PCルームの管理人代理を務めながら、どんな先生がどんな役回りで仕事をしているのかを掴もう、と思ったのはその時だ。配属から半年間は完全に観察期間にしようと思っていた私には絶好のチャンスだった。
学校で働き始めて3日目、もうひとりのキーマン、ンバさんと出会った。「ン」から始まる単語は日本人には馴染みがないので少々呼びづらいが、カメルーン人としては至極一般的な名字だ。彼女はワードやエクセルなどを教える傍ら、エトゥンディさんと同じくPCルームの管理人としても働いている。他の先生が言うに、私の前任者と一番親しくしていたのは彼女だったらしいが、おそらく私もそうなりそうだ。ンバさんも私とともにPCルームに常駐しているので、彼女と仕事をする機会は必然的に多くなる。私が初めてこの学校に出勤した時、PCルームには80台ほどのパソコンがあり、そのうち約半数が機能していなかったが、我々が地道に修理を続けた結果、2014年末の時点で70台ほどが稼働していた。ンバさん曰く、「私はハードウェアに関してはズブの素人だが、言われたとおりに手を動かすことはできる」らしい。確かに私は横でここが悪いあそこが悪いと口を出すだけで、実際の取り外しやパーツ交換はンバさんがやっていた。そうしているうち、新しい登場人物が現れた。
「ビール好きなんだって?飲みに行こう」と突然誘ってきたのはこの学校の情報科の教頭、ンゼモさんだった。
また「ン」から始まる人が出てきたぞ、大変だな
と思った私は、その後ンガンディさん、ンドンゴさん、ンヴォンドさんをはじめ10人以上も「ン」から始まる人と知り合うことになろうとは思ってもいなかった。
ンゼモさんは西部エリアのバファンという街の出身で、バミレケ族という民族だ。カメルーンには250以上もの民族が存在し、文化、人柄、見た目もかなり異なる。バミレケ族は仕事嫌いのカメルーン人の中では珍しく、勤勉で有名な民族だ。カメルーン人からも「バミレケはお金が大好きだからよく働く。」と揶揄されるほどに。
一方南部州に位置するエボロワは「ブル族」の街だ。ブル族は「我々は世界で一番働かない民族だ」と自称するほどに働かない。先生も自分の授業がある時以外は学校に来ないし、あっても来ない人もいる。上司から電話で呼ばれても「今行きます」と答えたっきり来る気配はない。来ない方ももちろんすごいが、それに全く怒らない上司もすごい。要はそういう国なのである。当然ブル族にも勤勉な人はいるし、バミレケ族にも怠惰な人はいる。日本人でもアメリカ人でも同様だが、結局は人それぞれということなのだろう。
余談だが、初めて彼と会って自己紹介をしたとき、「君はバミレケか?」と言い彼はげらげら笑っていたのだが、その理由は分からなかった。後で「そういやあの時なんで『お前はバミレケか』と聞いたの?」と質問してみたところ、どうやら私とほぼ同じ名前のバミレケ族が何人もいるらしい。私の至極平凡な名前が「リサ」や「アンナ」のようなグローバルネームの仲間入りを果たしたと思うと嬉しかった。このせいで私の名前は毎回スペルを若干間違われることになるのだが、この際目をつぶっておくことにした。
学校で働き始めたのが11月中頃だったため、そのわずか1か月後には冬休みを迎えた。カメルーンには小乾季・大乾季、小雨季・大雨季があるのみで冬という概念はないが、日本のように休みと季節の切り替わりが一致しているわけではないので非常にややこしく、便宜上「冬休み」と私は呼んでいる。休暇に入る前には終業式が開催され、通知表が配布されたり成績優秀者への表彰があったりする点は日本の学校と変わらない。しかし小学校にはこういう文化はないらしく、ふわっと休みに入り、ふわっと新学期が始まる。
本来であれば長期休みには国内旅行に行きたいところであるが、青年海外協力隊員には「移動禁」というあまり意味があるとは思えないシステムがあり、海外派遣されてから3か月以内は任地にいなくてはならないのである。最初の1か月は首都での研修なので、実質2か月だ。
任期を終えて日本に帰国した隊員が、「いやー、移動禁があって本当によかったです。あれがなかったら私は任地には馴染めていなかったでしょう。JICAには感謝していますよ。」と語っているのは聞いたことがなく、結局のところ上手く馴染める人は移動禁なんてなくても馴染めるだろうし、馴染めない人は移動禁があっても一生馴染めない、というのが真理だろう。それに、人口約10万人もいる街に住んでいる私がたったの2か月で馴染めるほどカメルーン人という国民は簡単ではない。
とはいうものの、決まりは決まりなので動けない。私がアフリカで過ごす初めてのクリスマスとお正月は、家の近隣住民やエボロワに遊びに来てくれた物好きな先輩隊員、自宅の警備員との雑談に終始した。アフリカの祭りというと賑やかに街全体でダンスをしたり爆竹を鳴らしたりするのかと思いきや、ひっそりと上がった花火がわずかに空を彩った程度で、拍子抜けするほどに静かだった。
10月に派遣され2年後の10月に帰国する、私達2次隊の派遣期間は2泊3日の旅行のようだ。
と私はよく思うのだが、その1日目に当たる2014年は静かに終わっていった。
2014年~渡航前後編~
完