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帰国後


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帰国前後のバタバタから約2週間。

帰国後バブル(みんなに帰国を祝われ、スターのような扱いを受ける期間)も終わり、ようやくカメルーン生活を振り返る余裕が出てきた。

 

2年半にも及ぶカメルーン滞在に関して思うところはいくつもあるが、良かった点と後悔している点を挙げると以下のようになる。

【よかった点】

  1. フランス語力が向上した
  2. カメルーンビジネスのビジョンが見えた
  3. 多少の不便は受け入れられる体になった

 

【後悔している点】

  1. カメルーン人の友人がほとんどできなかった
  2. 英語力があまり伸びなかった
  3. ルーティンワークになってしまった

 

まず、よかった点について順に記述する。

フランス語力に関して、前のセッションでも記載した通り、DELF B2レベル(仏検準1級相当)の習得に成功した。青年海外協力隊応募時から、どんな言語であれこのレベルの合格を目標として掲げていただけに、是が非でも達成したかった。このレベルを保持していると、語学学校などでフランス語講師の仕事ができるようになる。

取得に至るまでの道のりは平坦ではなく、思いの外本業が忙しかったため普段の生活の中であまり勉強ができず、何度も諦めそうになった。それでもフランス滞在時や長期休暇中に語学学校へ通いなんとかモチベーションをキープした。初回はリスニングの不調により不合格となったものの2度目の挑戦で合格することができた。今後はより上級レベルのDALF合格を目指し、学習を続けるつもりでいる。

 


 

カメルーンビジネスについては、派遣前から①アフリカビジネスの感覚を掴むこと、②帰国後に使える人脈を作ること、の2点を目標として掲げていた。というのも、私は青年海外協力隊応募時に会社を退職していたため、帰国後は無職が確定している。ビジネスを始めたいという夢と、IT業界に戻りたくないというネガティブな思いがマッチし、退職という選択肢をとった。その時に考えたのがアフリカビジネスだ。

アフリカ(特に中央~西アフリカ)には、日本企業がほとんど進出していない。進出しようとしても、文化や言語の違いを乗り越えられず、志半ばで撤退してしまうケースが多いという。逆に言えば、その逆境を上手く克服できればまだまだチャンスがある領域なのである。アフリカに派遣が決まった時点でそこに目をつけ、2年間でいかに準備に邁進するか、ということを考え始めた。私が始めようとしているのは、特に地元大分県とのコラボレーションだ。

運よく、私の滞在中に大分県の合同会社・TMT JapanがJICAの中小企業支援事業に採択され、カメルーンでバイオトイレを普及する活動を開始し、また大分県が2020年の東京オリンピックに向けカメルーン代表の誘致を検討し始めるなど、風向きがよくなってきた。

大分県とカメルーンの繋がりは2002年の日韓ワールドカップをきっかけに始まったが、近年はその交流も先細ってきたように感じられる。そこでTMT Japanや自治体とうまく連携し、その交流活動を再燃させようと検討を開始した。2年半の間に「やはり普通に就職しよう」と思い直さず気持ちをキープできたのは、私を支えてくれる彼らの存在が非常に大きい。

大分の地方新聞でカメルーン文化を紹介する記事を連載させてもらったり、私の帰国後、大分県の夏祭りにカメルーンブースの出店が決まったり、この2年半で手応えを掴むには十分すぎるほど進展させることができた。

 


 

私がカメルーンから日本に帰ってきて最も多くかけられた言葉が、「ガタイよくなった?」だ。自覚は全くないのだが、おそらくそれは日々の水汲みの賜物だ。

私が住んでいたのはカメルーン南部州の州都だが、州都であってもインフラが整っていないのがカメルーンという国だ。私が赴任した当初は、近所数世帯に水を供給することができるポンプとタンクがあり、朝晩は必ず水が出たうえ、地下水のためろ過せずに飲むこともできた。しかし、そのシステムが破損してからは地獄だった。

ポンプが装備されていない家庭は、公共水道を使うor井戸水を使うという2つの選択肢がある。我々の一帯には水道設備が通っていたので前者を使うことになった。しかし、断水がすこぶる多い。断水が多いというより、ほとんど断水しておりたまに出る時がある、と言った方が表現としては正しい。

中でも我々を悩ませたのは、いつ水が出始めるのか全く読めないという点だ。深夜3時に突如出る時もあれば、私の勤務中である14時頃のこともある。そうなると、出ている時に大量に貯水しておき、長期間の断水に備える必要がある。私の家には常時500ℓ近くの水が貯えられていた。それでも2週間も断水が続けば、さすがにバケツの底が見え始める。

そこで近所の手動ポンプ付き井戸の出番がやってくる。手に20ℓポリタンクを2つ持ち、徒歩3分ほどの道のりを何往復かするのである。文字にするとさほど大変な作業には見えないかもしれないが、計40kgのダンベルを持って歩き回るのは容易ではない。それが私に強靭な三角筋を授けてくれた。

これほどの困難を経なければ水すらも手に入らない国で2年半も過ごしたことで、日本における多少の不便は不便と感じない体になったようだ。トイレに入りペーパーがなくても、当然のように水に流せるタイプのティッシュを常備しているので全く問題ない。電車が遅延しても、カメルーンではバス待ちに2,3時間を費やすことは当たり前なので一切イライラしない。

カメルーン生活が私を逞しくしてくれたのは確かだ。

 


 

次に後悔している点について記述する。

青年海外協力隊員は、現地にたくさんの友達ができるケースが多い。友達を作るのではなく、自分が「みんなの友達」になるという感覚だ。私にはそれができず、「友達」という存在はほとんどいない。

頻繁に一緒にビールを飲みに行くカメルーン人もいるが、彼らは大体「同僚」であり、ビールを飲みに行くのも仕事の終わりに限定され、休日にわざわざ連絡を取り合って会うほどの関係性にはなかった。

また、私がわざわざバスで8時間かけて会いに行ったカメルーン人もいた。しかし、彼とはビジネスの話をするだけのいわば「将来のビジネスパートナー」であり、プライベートな話はしたことがない。家に泊めてもらったこともあるが友人と呼べる関係かと言われれば疑問が残る。

一度会っただけの人を「友人」と表現する人も多く、それを否定するつもりもないが、それは私にとっては「顔見知り」である。ではどうすれば私はある人を「友人」と呼び始めるのか、と問われれば答えるのは大変難しい。おそらく、自分に自由な時間がある時や、何らかの困難に直面した際にパッと顔が浮かぶ人物、ということなのだと思う。そういう意味では、そういう存在のカメルーン人は数人のみだ。

たった2年半で数人もできたのだから大したものだ、と自分に言い聞かせることにしている。

 


 

フランス語を学習する際に英語を同時学習すると効果的、とどこかで聞いたことがあった。しかもカメルーンには英語圏とフランス語圏があり、バイリンガル国家である。英語とフランス語を同時に学習する環境は整っていた。

しかし、実際にカメルーンに行ってみると、英語圏であってもフランス語が通じることが多く、どうしても得意なフランス語に頼ってしまう。駒ケ根訓練所で2か月、カメルーンでも1か月みっちりフランス語の授業を受けたので、私の頭はフランス語一色、英語を話そうとしてもフランス語が先に出てしまうコンディションに仕上がっていた。

この状況では、英語しか通じない環境に身を置く以外、英語≒フランス語というレベルに到達するのは困難だった。そうこうしているうちに任期が終わってしまい、とうとう英語の学習はほとんどできずに終わってしまった。残念ながら英語の勉強は帰国後に持ち越しとなった。

 


 

「マンパワーになってしまう」というのはどんな国のどんな職種の隊員も悩むところだ。

私も例に漏れずそれに該当し、職場ではマンパワーとなってしまうことが多かった。マンパワーにならないというのはどういうことかはよくわからないが、技術移転が成功し、自分がいなくても職場の仲間だけで回していける環境を作ることなのだろうと推測する。

私の場合、更に悪いことに、マンパワーになるだけに留まらず受け身にもなってしまった。トラブルが発生すれば対処するが、トラブルが起きなければ何もしない、という生活を続けた結果仕事がルーティンワークになり、帰国間際にははかなりトーンダウンしてしまった。

「小学校教育」職種の隊員のように、何かを伝えるために授業やワークショップをする、というタイプの活動も取り入れればよかったと今になって思う。

 

「元気に帰国するのは当たり前。100人に1人が自分の納得のいく活動ができ、10000人に1人が自分の帰国後にも現地の人だけで回せる環境が作れる。」というのはJICA関係者から聞いた話だ。私は元気に帰国したので、当たり前の責務は果たした。

コンピュータ技術隊員としての「仕事」はもう少しやり様があったと後悔しているが、「活動」という言葉を、アフリカビジネスのための人脈作りにも範囲を広げれば100人に1人になれたと思う。

 

そういう意味では私は自分の2年半に合格点をつけたい。

 


 

最後に、2年半を総括したい。

「青年海外協力隊って国際協力だよね?」という質問をよくもらう。

私は「国際協力」、「開発援助」、「ODA」の違いをイマイチ理解できていない。カメルーンに行く前は私も協力隊は国際協力をしに行くと思っていたが、滞在中に意見が変わった。

他の隊員は分からないが、少なくとも私は国際協力はしていなかったと思う。私のしていたのは「国際交流」だ。

私が思うに、国際協力は数値としての結果を求められる。

例えば、「米の収穫量が○○㌧である農家の作業効率化を行い、収穫高を10倍にしました。来年度はさらに2倍にすることを目指します。」

といったケースが国際協力に当てはまる。当然綿密にスケジュール・進捗管理を行い、目標を下回れば、何故下回ったのか、どうすれば達成できるのかを思索する。私のように、「職場には毎日出勤しているが、トラブルがなければ(報告できるようなことは)特に何もしないで帰る日もある」パターンは上記には該当しない。

 

もちろん、仕事がないときに本当に何もしていないわけではなく、同僚教師の個人用PCのトラブル対処をしたり、同僚や近隣住民のAndroidスマートフォンのメンテナンスを行ったり、学校スタッフのおばちゃん達とジュースを飲みながら雑談をしたり、本来の私に与えられた職務と合致しない範囲の活動を行っていた。

雑談に勤しむ際は、カメルーン人の同僚が日本に対して好意的な感情を持ってくれることを目標に、日本の文化や風土などを中心に話すように心がけていた。反対に、日本に帰ってからカメルーンのことを話せるよう、カメルーンに関するどんな些細な情報でも逃さずキャッチするようにも注意していた。

これはもう国際協力ではなく、純度100%の国際交流だと思う。

 

中には一般の日本企業で仕事しているかのように緻密な管理を行い、それなりの結果を出している隊員もいるだろう。

 

どちらも青年海外協力隊の正しい姿だと私は思う。

 


 

私は帰国後もカメルーンと関わっていきたいと思い、カメルーン製品を輸入し日本製品を輸出する会社を起こす予定。更にはアフリカに進出を目論む日本の中小企業や、日本で働きたいカメルーン人を支援するコンサルティング活動も行うつもりだ。

貿易やコンサルティングを行う傍ら、大分県とカメルーン共和国の交流を促進する活動を続けていく。現在は情報収集や準備に追われている。

 

私がこの文章を書いている理由はごくシンプルだ。

これを読んで青年海外協力隊員としてカメルーンに応募してくれる大分県民が現れることを強く期待しているのである。

これを読んで国際精神を刺激される方がいれば是非、青年海外協力隊の扉を叩いてみてほしい。

 

貴方の中の、貴方自身も知らなかった扉も開かれることは間違いない。

 

 

元ITエンジニア、アフリカへ行く